松谷村(読み)まつだにむら

日本歴史地名大系 「松谷村」の解説

松谷村
まつだにむら

[現在地名]赤碕町松谷

赤崎あかさき村の東に位置し、タブ谷を水源とするおお川が中央を流れる。「松ケ谷村」とも記した(正保国絵図など)。拝領高は一六〇石余、本免は三ツ七分。竹運上銀一五匁を課されていた(藩史)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一八〇石余、竈数三〇。天保三年(一八三二)山林一町四反余(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二一九石余、竈数一五。「伯耆民談記」の土産の事の条に「松ケ谷の米、魚品」とあり、また文政元年(一八一八)の「田簑の日記」にも「ここの海の小鯛ハ味よくて、都にてもてはやす」とある。


松谷村
まつだにむら

[現在地名]三重町内山うちやま 松谷

三重川の最上流部、内山村の南にあり、日向道がほぼ南北に通る。村名は地元では「まつたに」とよぶ。近世を通じ臼杵藩領。近世初期には内山村の内であったらしく、慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳(渡辺家文書)に含まれる内山村の一冊には「松平共ニ」の注記があり、この「松平」が当村にあたるか。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高三二石余・出来高五九石余、田方七〇石余・畑方二一石余、日損所、小松山などありと注記される。


松谷村
まつだにむら

[現在地名]球磨村さんうら 松谷

球磨川支流の那良なら川中流域東岸に位置する。北は球磨川を挟んでわたり村、東は大牟田谷おおむただに村、西は毎床谷まいとこだに村、南は薩摩国大口おおくち(現鹿児島県大口市)に接する。村の大部分は山林である。慶長国絵図に「松ノ谷」とあり、高四石七斗。寛永一一年(一六三四)郷村高辻帳に松之谷とあり、本田高七石六斗・新田畑高四六石七斗余。


松谷村
まつだにむら

[現在地名]小松市五国寺町ごこうじまち

かけはし川中流右岸の丘陵地にあり、五国寺村に隣接する。中世軽海かるみ郷の内。「白山之記」に、新宮について「建立人乃美郡軽海郷松谷住如是房云人」とあり、白山中宮八院の一つに松谷寺がみえる。正保郷帳では高一四五石余、田方三町七反余・畑方四町七反余。


松谷村
まつたにむら

[現在地名]板取村 松谷

板取川西岸に位置する山間の村。西に谷筋松谷洞があり、南は老洞おいぼら村。江戸初期には洞戸ほらど(現洞戸村)の内で、正保四年(一六四七)洞戸村免定(河合文書)に松谷分とみえる。その後同村より分村し、元禄郷帳に洞戸松谷村と記され、高二一石余。「濃州徇行記」によれば高二八石余、田畑三町五反余、山三三町余をもち山税一石余、家数七ほど・人数四三、農間に炭焼駄賃稼を行う。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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