デジタル大辞泉
「松前町」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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松前町
まつまえちよう
面積:二九三・〇八平方キロ
昭和二九年(一九五四)七月松前郡松前町・大島村・小島村・大沢村が合併して成立。渡島支庁管内南西部、北海道の最南端に位置する。渡島山地の脊梁大千軒岳(一〇七一・六メートル)を基点として南に前千軒岳(一〇五六メートル)・袴腰岳(八一四・七メートル)などの連山で福島町と境をなし、北は松倉山(六二二メートル)・木無山(八七一メートル)の連山で檜山支庁檜山郡上ノ国町と接している。西は日本海に臨み、南は北海道最南端の白神岬で津軽海峡西口をなし、日本海に浮ぶ渡島大島・松前小島の島嶼を属島としている。南部は百軒岳(七七二・三メートル)を水源とする及部川、大森山(三七六メートル)を水源とする大松前川などが松前湾に注ぎ、日本海へは八兵衛岳(七九〇・五メートル)に発する茂草川、前千軒岳から流出する小鴨津川、大千軒岳に源を発する大鴨津川などが流入する。平地は海岸とこれらの河川に挟まれた海岸段丘上にあり、町域の約六六パーセントが山林で、耕地面積は約五パーセントと少ない。白神岬や大島・小島・小浜海岸・折戸海岸は松前矢越道立自然公園に含まれている。海岸線は六〇・七キロに及び、これに沿って国道二二八号が通っている。
町域での人類の営みは縄文時代からみられ、縄文時代前期から擦文時代に及ぶ札前遺跡、縄文中期から後期の寺町貝塚から住居跡などが発見されている。一五世紀半ばにはいわゆる道南十二館のうち覃部館・大館・禰保田館・原口館があった。慶長一一年(一六〇六)には松前慶広が福山の台地に福山館を築き、近世を通じて商人など多くの人々が相次いで来住し政治・経済・文化の中心として発展した。
松前町
まさきまち
[現在地名]松山市松前町一―五丁目・
平和通六丁目
松山城下町の西部にあり、魚町に平行してその西側を南北に通る町筋。古くは南から南松前町・松前半町・中松前町・北松前町・細物町と称した。南は出淵町(東西の道)に交わる地点に起こり、松前半町の北端で紙屋町(東西の道)と交差する。
松前町の初見は、寛永一二年(一六三五)の松山城下町図(伊予史談会蔵)で、町名の由来は、慶長八年(一六〇三)に加藤嘉明が松山を開いた時、彼に従って伊予郡松前から移住した者が多かったのによるという。
松前町
まさきちよう
面積:一九・七三平方キロ
松山平野の西南部。北は重信川を挟んで松山市に接し、東はわずかに重信川筋で砥部町と接し、東から南にかけて伊予市と古い松山藩・大洲藩の藩界や大谷川の水路によって複雑な境界をつくっており、西は伊予灘に面する白砂海岸と町の中心集落を形成している。町域は東西約七キロ、南北約四キロ、起伏の少ない平野で、松山市の南郊をなし、町の東部から南部を国鉄予讃本線、西部を伊予鉄道郡中線が通じ、国道五六号に沿い交通の便もよい。
慶長八年(一六〇三)加藤嘉明が松山に城を移すまで城下町として栄えたが、その後は生魚の行商などが行われる寒村となった。
松前町
まつまえちよう
昭和一五年(一九四〇)福山町が改称して成立した町。字松城など一四字を編成。同年の人口八千三八八、同一九年の世帯数一千三〇・人口五千三五八。字松城に同二二年松前簡易裁判所・松前地区検察庁・松前林務署が設置された。同二四年国宝福山城三重櫓が焼失。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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松前〔町〕
まつまえ
北海道南西端にある町。 1900年福山町として町制。 40年現町名に改称。 54年大島,小島,大沢の3村と合体。地名はアイヌ語マツオマナイ (半島の意) ,マトロナイ (女の住む沢の意) に由来。松前半島の先端,津軽海峡に面し,道内で最も古くから開けた地。鎌倉時代から和人が居住。江戸時代には松前藩の城下町となり,蝦夷地の政治,経済,文化の中心地として発展,早くからニシン漁が盛んだったが,現在はイカの水揚げが多い。史跡松前城は桜の名所として知られ,付近には,モウソウチク,ツバキ,イチジクなど,道内では珍しい暖地性植物がみられる。白神岬,折戸海岸,小浜海岸および,オオミズナギドリの繁殖地として天然記念物に指定されている大島 (→渡島大島 ) ,小島は松前矢越道立自然公園に属する。海岸沿いを国道 228号線が通る。面積 293.25km2。人口 6260(2020)。
松前〔町〕
まさき
愛媛県中部,伊予灘にのぞむ重信川河口左岸の町。松山平野南部を占める。 1922年町制。 55年北伊予,岡田の2村と合体。中心集落の松前は,文禄4 (1595) 年以後,加藤嘉明の正木城の城下町として栄えたが,慶長8 (1603) 年嘉明は家臣を率いて松山に移った (松山市の松前町はここから移った人々の町) 。 1938年化学繊維工場が海岸砂丘地に立地し,工業地区としての発展の契機をつくった。平野部では米,野菜,花卉などが栽培され,宅地化も進んで松山市の近郊住宅地となっている。 JR予讃線,伊予鉄道郡中線,国道 56号線が通る。面積 20.41km2。人口 2万9630(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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