松波村(読み)まつなみむら

日本歴史地名大系 「松波村」の解説

松波村
まつなみむら

[現在地名]内浦町松波・明生みようじよう福光ふくみつ

現町域の北東部に位置する。松波川河口部を中心とし、内浦街道が通る。鍛冶町かじまち元組もとぐみ御坊町ごぼうまち浜町はままち坪根つぼねなどからなる在郷町で、十村の所在地として年貢米収納中出蔵・作食蔵・塩蔵など諸施設も置かれた。戦国期には松波城が築かれ、「能登志徴」に「松波家の城下にて」とあり、その規模などは未詳ながら古くから中核的地域であった。中世の松波は若山わかやま木郎もくろう郷の内で、現在の松波および西方かみを含む。永和元年(一三七五)一二月二日の日野資教御教書(万福寺文書)によれば「木郎郷松波内水谷荒(地)一所」および「三□権守田地参新開」を郷内満福まんぷく(現万福寺)に安堵している。水谷荒地の四至によれば、上の現日の本ひのもと神社後身とする笠師かさし宮と火宮ひのみやがすでに鎮座していたことがわかる。また応永二四年(一四一七)一一月一六日書写の四坪薬師寺大般若波羅蜜多経巻二三九奥書に「若山庄木郎内松波上別所大日寺於松本坊」とみえ、松波川中流域が上と称されていたこと、別所大日だいにち寺は上の光明こうみよう院の前身と推定される。室町末期成立の「驢嘶余」に、日野殿存知地として「能州郡モリ松波千二百貫ノ知行也」とみえ、当時の知行高を考えるうえで興味深い。永正一五年(一五一八)三月小木おぎに一宿した冷泉為広の「能州下向日記」に「松ナミ」と記している。

正保郷帳に村名がみえ、高七二一石余、田三八町一反余・畑一町余、新開高一三一石余(免二ツ五歩七厘)。承応三年(一六五四)能登奥両郡収納帳では草高七六五石余、免四ツ二歩五厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高九〇一石、免五ツ八歩、新開高六石、小物成は山役三一七匁、鳥役二匁(出来)、猟船櫂役二五七匁(うち二一二匁が出来)、網役二四匁(うち三匁が出来)であった(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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