日本歴史地名大系 「板敷越」の解説 板敷越いたじきごえ 山形県:東田川郡立川町板敷越松(まつ)ノ木(き)村と最上郡古口(ふるくち)村(現戸沢村)を結ぶ山越の道。出羽山地板敷山(六二九・六メートル)の北側峠を越えた。地名の由来として、あまりの急坂のため「痛み敷く」難所であるためとか、板を敷いて下ったためとか伝える(「増訂最上郡史」など)。平安時代すでに都人に知られ、「夫木抄」に読み人知らずとして「みちのくに近きいではのいたじきの山に年ふるわれぞ侘しき」と詠まれる。正保国絵図や立谷沢村絵図(宇治文書)などによれば、庄内側の松ノ木に番所があった。松ノ木で板敷山から流れる板敷沢右岸沿いに山中に入り、板敷沢を眼下に尾根に上がり、北方眼下に最上川を見ながら尾根伝いに新庄藩領側に向かった。前掲村絵図では藩境手前の沿道に「故御茶屋」とみえ、陣(じん)ヶ嶺(みね)近くに一里塚などもあった。三ッ沢(みっさわ)川沿いに下り、古口村枝郷三ッ沢村で山中から離れ古口村に出た。起伏の多い道で、道中二ヵ所に急勾配の坂道があり、「山形県地誌提要」によれば、古口側から登って手前を薬缶転(やかんころがし)、庄内寄りを「大徳寺泣かせ」といったらしい。最上川の増水や冬季の結氷、清川(きよかわ)ダシといわれる強風のために舟による航行が不可能な場合、脇街道的役割を果したといわれ、「打続東風ニ而五月十四日 亀田岩城伊予守様 清川に御泊り二夜御逗留 御宿不動院」(文化一〇年「御用富帳」清川斎藤文書)とか「最上川通不相成、巳十二月二十六日より山越に相成申候」(立川町の歴史と文化)などの記録がみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by