板蓋宮(読み)いたぶきのみや

日本大百科全書(ニッポニカ) 「板蓋宮」の意味・わかりやすい解説

板蓋宮
いたぶきのみや

皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇の宮室。『日本書紀』によれば、皇極天皇は643年(皇極天皇2)4月、小墾田宮(おはりだのみや)より飛鳥(あすか)板蓋の新宮に移った。645年(大化1)6月、板蓋宮で蘇我入鹿(そがのいるか)が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らによって暗殺された事件が発端となって、いわゆる「大化改新」が始まった。同年12月難波(なにわ)に遷都し、652年(白雉3)長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)が完成したが、654年孝徳(こうとく)天皇が崩御すると、皇極上皇は板蓋宮で重祚(ちょうそ)して斉明天皇となった。天皇は小墾田に瓦葺(かわらぶ)きの宮殿を造営しようとしてならず、板蓋宮もこの年の冬火災にあったので、飛鳥川原宮に移った。

 伝承板蓋宮跡は飛鳥川の東岸、奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村大字岡(おか)の地にあり、1959年(昭和34)以来発掘調査が続けられている。遺構は大きく上・下2層に分かれるが、上層遺構は、一本柱列によって区画された南北197メートル、東西約158メートルの内郭と、内郭の東106メートルにある南北の外郭施設、内郭南東のエビノコ郭とからなる。内郭内からは玉石組の大井戸や多数の溝、中軸線上の正殿址(し)と南門址のほか掘立て柱建物多数が検出されているが、伴出土器の年代からみて7世紀後半の宮殿址と考えられている。下層遺構の実態は不明であるが、「大花下」「白髪部五十戸」などの注目すべき木簡が出土しており、7世紀中葉の宮殿址の存在が想定されている。上・下層宮殿址の宮号比定や板蓋宮との関係についてはなお今後の研究課題であろう。大井戸周辺部が国の史跡に指定、整備されている。

[中尾芳治]

『橿原考古研究所編『飛鳥京跡 1・2』(1971、80・奈良県教育委員会)』『岸俊男編『中国の都城遺跡』(1982・同朋舎)』

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