林崎浦(読み)はやさきうら

日本歴史地名大系 「林崎浦」の解説

林崎浦
はやさきうら

[現在地名]鳴門市撫養町林崎むやちようはやさき

北浜きたはま村の南にあり、北東は弁財天べざいてん村・岡崎おかざき村。北東部の妙見みようけん山には撫養(岡崎城)跡がある。西境を撫養川が北東へ流れ、対岸斎田さいた村との間に淡路街道の林崎舟渡があり、同街道は当村を東進したのち妙見山西側を北東へ向かう。南部は撫養川に臨む重要な郷町として繁栄した。古くは洲崎と称したという(阿波志)。「三好家成立記」によると、三好氏の被官四宮加賀守・同左近大夫は林崎を本拠地としており、天正五年(一五七七)三月二八日に三好長治が自害したことを知らずにその行方を探して別宮べつく(現徳島市)付近に至った。そこで長治自害を聞き、せめてその場所を見ようとして敵方と戦い、加賀守は深手を負って林崎へ引上げたという。

天正年中四宮加賀守の子孫四宮関之丞により林崎から拾四軒屋(岡崎村内)の間が開発されたという(鳴門辺集)。慶長期(一五九六―一六一五)には周辺部の塩田開発が進み、岡崎・弁財天北浜立岩たていわの諸村が分立した(鳴門辺集)。慶長期のものと推定される国絵図には「はや崎」とみえる。正保国絵図には撫養林崎浦とみえ、一八五石余、新田とある。そのほか北浜村弁財天村立岩村・拾四間屋が林崎のうちとなっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報