朝日日本歴史人物事典 「柴山矢八」の解説
柴山矢八
生年:嘉永3.7.13(1850.8.20)
明治大正期の海軍軍人。鹿児島(薩摩)藩士柴山良庵の次男。東郷平八郎の従弟。海軍少将柴山昌生は嗣子。明治4(1871)年藩の選抜で米国に留学,7年に海軍中尉。英国教師ダグラス海軍中佐に水雷術を学ぶ。のち海兵隊(海軍陸戦隊)長として,8年江華島事件の際は,砲兵1小隊を指揮して弁理大臣黒田清隆を警護した。9年萩の乱には「浅間」艦で出動し,10年西南戦争には「筑波」艦で戦地に回航した。12年初代の水雷練習所長,16年同所改変に伴う水雷局長として,初期の水雷術発展に貢献した。19年海相西郷従道に随行して欧米に出張。「筑波」艦長,巡洋艦「高千穂」艦長,海軍兵学校長等を経て27年少将。日清戦争中は佐世保鎮守府司令長官,30年中将に進んだ。精悍豪爽で新知識に富む海上の戦将,軍政家だった。山本権兵衛ら「本省派」と対抗する「艦隊派」の中心人物。海軍大学校長,日露戦争中は呉鎮守府司令長官,旅順口鎮守府司令長官を務めて38年大将。旅順口鎮守府司令長官時は同港内の沈没したロシア艦の引き上げ作業に携わり,海軍の艦艇勢力増加に努めた。大正4(1915)年退職。男爵。<参考文献>松下芳男『日本軍閥の興亡』,外山操『陸海軍将官人事総覧(海軍編)』
(影山好一郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報