柴田承桂(読み)しばたしょうけい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「柴田承桂」の意味・わかりやすい解説

柴田承桂
しばたしょうけい
(1849―1910)

薬学者。薬学博士尾張(おわり)藩医永坂周二(1808―1867)の次男に生まれ、同藩医柴田家を相続した。1871年(明治4)官命でベルリン大学に留学、ホフマンに有機化学を、ミュンヘン大学ペッテンコーファーに衛生学を学ぶ。1874年東京大学教授に就任、薬学教育を創始した。1878年内務省衛生行政指導参与。翌1879年公衆衛生の原典『衛生概論』を著す。第1版日本薬局方編纂(へんさん)に次いで、初の薬律起草に貢献した。また官設製薬事業達成を主導した。赤十字社創設委員。退官後著述に努め薬学振興を助成した。日本薬学会名誉会員。著書に『扶氏薬剤学』(1881)、『顕微鏡用法』(1882)、『普通鉱物学』(1905)ほかがある。長男桂太は植物学者、次男雄次は化学者、孫の承二は薬学者である。

[根本曽代子]


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朝日日本歴史人物事典 「柴田承桂」の解説

柴田承桂

没年:明治43.8.2(1910)
生年嘉永2.5.12(1849.7.1)
明治期の薬学者,有機化学者。尾張(名古屋)藩医永坂周二の次男。同藩医柴田竜渓の養子となる。藩の貢進生として大学東校に入学し,明治3(1870)年文部省第1回留学生としてドイツ留学。帰国後の8年5月東京医学校教授(製薬学)に就任,内務省衛生局御用掛,東京・大阪司薬場長等を歴任。病弱のため官を辞したのちは著訳に専念し,著訳書は全国の薬学校で長らく教科書として使われた。花柳病,薬剤師などの訳語も残した。著訳書に『衛生概論』(編著),『扶氏薬剤学』(訳),『古物学』(訳),『有機化学』(共著)などがある。長男桂太(植物生理学),次男雄次(化学),孫の承二(薬学)はともに東大教授。

(宗田一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柴田承桂」の解説

柴田承桂 しばた-しょうけい

1850-1910 明治時代の薬学者。
嘉永(かえい)3年5月12日生まれ。永坂石埭(せきたい)の弟。柴田桂太,雄次の父。文部省第1回留学生として,ベルリン大でまなぶ。東京医学校(現東大)製薬学科教授,内務省衛生局御用掛などを歴任。「日本薬局方」を編集し,また薬学の訳語をさだめた。明治43年8月2日死去。61歳。尾張(おわり)(愛知県)出身本姓は永坂。著作に「衛生概論」など。

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367日誕生日大事典 「柴田承桂」の解説

柴田 承桂 (しばた しょうけい)

生年月日:1849年5月12日
明治時代の薬学者;官僚
1910年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の柴田承桂の言及

【化学】より

…アトキンソンRobert William Atkinson(1850‐1929),E.ダイバース(ともにイギリス人),ケルナーWilhelm Körner(1839‐1929),ロイプOscar Loew(1844‐1941)(ともにドイツ人)らが理学部,工学部,農学部等にいて,よく学生を育てた。一方,初期の留学生のなかから,日本の化学の中心となった松井直吉(1857‐1911),桜井錠二,長井長義(1845‐1929),柴田承桂(1850‐1910)らが出た。1878年今日の日本化学会の前身である化学会が,81年には日本薬学会,98年には工業化学会が設立され,この間,1886年には帝国大学令が施行されるなど,教育研究の体制は徐々に整備されていった。…

※「柴田承桂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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