翻訳|pharmacy
医学の一部門として発生し,さまざまな曲折を経て今日の様相にまで発展してきた一種の技術科学と考えられ,医薬品の創製,製造,患者への適用・管理,流通管理のほか,国民の保健衛生の向上,保全に資する総合的学問である。
薬学の成立を歴史的にたどるとすれば,その淵源はギリシア時代の〈調剤医師〉に求められる。医薬未分化の時代に,調剤医師と後世の薬史学者に呼ばれた,〈診断〉もすれば調剤も行ったギリシア・ローマ時代の医師は,やがて治療上必要な〈薬の調製〉という手仕事を,医薬原料である生薬類を扱っていた薬種商(ピグメンタリウスpigmentarius)にゆだねる風潮が起こってきた。ディオスコリデスの《薬物誌》は,この時期の薬学知識の集大成であり,後世に大きな影響を与えた。その後,アラビアで隆盛をきわめた錬金術を通して,さまざまな化学的技術を獲得し,通商圏の拡大によって多様化した生薬類を扱うようになったピグメンタリウスたちは,〈技術をもった薬の専門家〉として発展していった。彼らは薬の調整,製造,販売を仕事場,つまり〈薬局〉で行うようになった。11世紀にこのアラビアの薬学技術がヨーロッパに渡り,ヨーロッパ各地,ことに南ヨーロッパを中心としてアラビア流の薬局が開設された。これらの薬局はやがて北ヨーロッパにも伝播し,12世紀には,これらの薬局はギルドに模した〈薬局同業組合〉を結成しはじめた。この同業組合は18世紀にはほとんど全ヨーロッパで結成され,職権の確立,拡大,過当競争の防止に熱心に活動した。この目的を達成するために,薬剤師(ピグメンタリウスの後裔(こうえい))は薬局の中で技術を練磨し,そして熱心に徒弟教育を行った。この薬局ではぐくまれ,集積された技術学が今日の薬学の母体となっており,徒弟教育のシステムが薬学教育の原形となっている。
薬局同業組合がヨーロッパで結成されはじめた12世紀から,その完成期となった18世紀までに,薬局で蓄積され,その業務となったものは,(1)医師の処方に従って調剤を行い,販売すること,(2)医薬品の製造と創製,(3)地域住民に対する公衆衛生指導,であった。
医師の処方に従って正確に調剤を行うためには,処方箋に記載された生薬類を熟知することが必要で,そこから,植物についての知識を身につける努力,さらに新しい薬効を示す植物の探索,効力の安定した生薬を得るための栽培法,効力のすぐれた品種の鑑別法の探究などが生まれることになった。これらの努力は植物学の成立の一因となった。そして植物学が科学として発展すると,この科学は薬局における技術を支える最も重要な科学として,徒弟教育の中に取り入れられるようになった。16世紀以後,薬剤師は分類学上の位置が確定した植物について,錬金術で練磨した諸技術を駆使して〈植物から薬の精〉を,精油やエキスの形で取り出した。さらにパラケルススのごとく,水銀などの金属類を薬剤として調整するものも出た。これらは処方や調剤の中に組み込まれるようになった。またこの薬剤製造の奥に潜んでいる自然科学的真理にも興味をもつ薬剤師が多く輩出した。18世紀から19世紀にかけて,アヘンアルカロイドであるモルヒネをはじめ,キニーネ,エチメン,ストリキニーネ,ブルシンなど25種のアルカロイド類が,F.W.A.ゼルチュルナーをはじめとした薬剤師の手によって取り出されている。このように近代化学の発祥となった多くの物質が解明されるようになると,化学もまた薬局の重要な〈技術を支える科学〉として徒弟教育の中に取り入れた。
調剤を中心とする技術と,それを支える植物学,化学を中心とする科学と,プライマリーケアを含む公衆衛生技術学が整理された徒弟教育は,やがて公の権力によって〈薬剤師教育〉として認められるようになった。これが近代薬学の母体となったのである。
18世紀に起こった産業革命は,薬業および薬学にもきわめて大きな変革をもたらした。上に述べた薬学は個人の薬局を中心とした薬剤師業務に根ざしたものであったが,この薬剤師業務の(2)として述べた薬剤の製造と創製と,(3)の地域住民に対する公衆衛生指導は,産業革命の進展とともに崩壊し,個人の〈薬局業務〉から分散しはじめるのである。たとえばアルカロイド化学が発展しはじめた初期には,生薬成分そのものとして薬局で製品化され,販売されていたが,この家内工業的段階は産業革命の進展とともに,薬局から製薬企業へと発展し,大規模な工場生産へと移行していった。一方,産業都市が形成され,産業労働者が集中することによって,かつての薬局薬剤師個人が小地域の住民を対象に行いえた保健衛生の指導業務は,比率のうえでは追々に縮小され,地方自治体や中央集権国家の政府みずからが対処しなければならない部分,環境衛生上の問題として提起されるようになってきた。
薬の創製,製造に近代化学の光があてられたのは18世紀の後半からである。薬学を支えたのは,18世紀に成立し,それ以後発展しつづけている近代有機化学と基礎医学を含む生物学であった。
顕微鏡の導入による病理学,ことに組織細胞病理学の確立,実験動物を駆使した実験薬理学,生理学,生化学および細菌学などの基礎医学と,化合物をその化学構造と反応の両面から追究し,理論的体系にまとめあげることに成功した有機化学の進歩が,薬学の技術学を支える科学となったのである。ことに大部分の薬の本体である有機化合物を研究対象とする有機化学は薬学の発展を支える主要な基礎学であり,19世紀を出発点として独自の発展をとげた。薬として利用されていた草根木皮から,つぎつぎにその主成分が単離され,やがてその化学構造が明らかとなった。この間に,原子,分子,化学結合の様相,酸化と還元,縮合や重合,置換と付加等の化学反応など,近代有機化学の基礎となる知識が集積,整理されてきた。石炭タールの中性成分であるベンゼンの化学構造の研究,その安定性,置換反応の法則性の研究は,やがて共鳴理論を生み,R.ロビンソンやC.K.インゴルドによって有機電子論が確立され,さらに分子中の電子の局在の確率論的な把握は,分子軌道法の理論を生み出した。これらの研究によって,化合物の反応性を定量的に扱うことが可能となったばかりでなく,生物の基本単位である細胞内の反応すなわち生体現象を,物理・化学的に解明する道が開かれることとなった。
また薬を物性論の立場から解明する物理化学の発展は,〈薬の剤形〉に学問的根拠を与えることとなった。薬学が〈物理学,化学,生物学の基礎科学に支えられる応用の技術学〉と規定されるゆえんは,ここにあると考えられる。
現代の薬学は,その扱う課題によって,いくつかの分野に分化している。そのおもなものをあげると次のようになる。(1)生薬学,天然物化学 天然の動植物などから,医薬品の開発,利用などについて研究する分野。(2)薬剤学 製剤学ともいい,薬品の製造加工から患者への投与までの過程での諸問題を扱う分野。(3)薬理学 生体と薬物学とのかかわり合いについて研究する分野で,薬物学,薬品作用学,薬物動態学などからなる。(4)薬品分析学。(5)衛生薬学。
これらの諸分野はさらに細分化される一方,医学,生物学など,隣接科学との間での学際的領域も発展しつつある。
薬学は,人々の健康を守り,疾病を克服するという共通の目的をもった医学とは,もともと同根の学問領域であった。したがって,大きく分類すれば〈医学〉のなかに包括されるべきものであろう。しかし,薬学が〈薬〉という〈物質〉を扱う技術から出発した結果,現在の姿として発展してきたのであった。ことに日本では,18世紀末の明治初年に西欧から他の諸制度と同様,薬事制度もまた,西欧で組織された医療制度,薬事制度をそのまま導入したにもかかわらず,急激な近代化とその後の国家の要請によって,世界の薬学の姿とは相当異なったものとなっている。最も大きな相違点は次の3点である。(1)医薬分業の不徹底。(2)西洋薬製造のための科学・技術の偏重。(3)新しく導入された工業,鉱業によってもたらされた,人々の健康阻害に対処する公衆衛生技術への要請。
現在年間13兆円に及ぶ日本の総医療費の40%弱を占める医薬品費の大部分を,国内生産でまかなうことができるまでに成長した日本の医薬品生産を支えたものは,もちろん,基礎化学工業の進展であったことは事実であるが,明治以来,有機化学偏重といわれながらも,薬を作る技術を練磨し,習熟させてきた薬学出身の化学者,技術の努力を見逃すことはできない。世界の薬学者に伍して,第一級の有機化学者を輩出してきたことは,日本の薬学界の誇りでもある。また古くは明治期における足尾銅山の鉱毒事件以来,現代におけるさまざまな化学物質による公害の問題や,食品の保存,流通面における衛生科学的分析,食品添加物の良否の鑑別等の研究が発展していることや,小・中・高校の生徒の日々の健康を守り,教育環境の改善に,校医とともに活動している学校薬剤師が活躍していることも日本の薬学の特色である。
しかし,明治期に制度としては取り入れられながら,〈医薬分業〉が不徹底であるため,医療の面での〈薬剤師の制度的疎外〉状態が続いている。このことは,単に〈医療に役立つ薬学〉の発展が,薬学の他の分野に比べて不十分となっているという学問的な面だけでなく,国民が〈正しい医療を受ける〉という立場で考えても残念なことである。昭和30年代以後,つぎつぎに発生した薬害問題を分析してみると,ほかにさまざまな社会的要因があることも事実であるが,医薬分業が徹底していれば当然未然に防ぐことができたと考えられる点が少なからず存在する。
1970年代以降,日本の薬学の分野の人々の間で,〈医療のなかの薬学を今後どのように整備していくか〉が真剣に討論され,今後その討論にもとづいて出てきた結論を,どのように実現していくかが当面の問題となっている。
薬学を形成する学問のなかで,従来日本の薬学が世界の薬学に対して優位であった有機化学をはじめとする基礎学の教育,研究をますます発展させながら,立遅れの感があった医療面での薬学の教育,研究をどのように充実させてゆくかが,日本の薬学の努力目標となっている。
一方,諸外国では中世に始まった薬局同業組合以来の,あまりにも職能技術的薬学であった薬学に対する反省から,1960年代には医薬品産業,ことに製薬面に活動しうる有機化学,有機合成化学,薬理学,生化学の教育を重視した薬学に脱皮を図り,また70年代から80年代にかけては,医療により密着した医療薬学への脱皮を目指した変革が行われつつある。
出発と発展の道程の違いがあっても世界の薬学の目ざすところは,日本の目指すものと変わらないことが痛感される。
→医学 →医薬品 →医薬分業
執筆者:辰野 高司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
薬学とはいかなる学問であるかということについては、これまで種々の見解が出され論議されてきたが、化学物質を人間の健康との関係から研究する学問分野である点では一致している。薬学者の伊藤四十二(よそじ)(1909―76)は「人の健康の保持増進と疾病の治療を目的とし、主としてこれに関連する物質を通じて、この目的に到達するための学問」と定義しており、また『薬学研究白書』では「医薬品の創製、製造、管理を目標とする総合科学」と定義している。
薬物には化学的・生物学的側面のほか、物理的あるいは物理化学的側面もあり、これらが導入されて新薬の創製、開発、製造に大きな影響をもたらした。しかし、いずれも物質志向型ないし医薬志向型であり、薬剤の調整、管理、評価といった病院薬局での業務は患者志向型であるべきもので、薬学の一つの方向として臨床薬学ないし医療薬学という分野が、アメリカをはじめ世界各国で急速に発展してきた。日本の薬学は、もともと有機化学を中心として発展してきた学問であり、薬物をまず化学物質として取扱い、そのため有機化学および天然物化学が高度に発展したが、臨床医学という薬物治療の現場との交流が欠けていた。
元来、薬学は医学の一部門として発生し、医師が診断して薬の調合もしていた。しかし、ヨーロッパにおいて1240年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は医薬令を公布し、医と薬を分離して医師の薬局所有を禁じた。日本では江戸時代の終わりまで、薬学は医学修業の前提とされていたにすぎないが、明治維新後にヨーロッパ医学の影響を受け、1873年(明治6)第一大学区医学校(後の東京大学)に製薬学科を設けて薬学を教授した。これは大学における最初の薬学教育である。翌年には医制が公布され、専門の薬舗主(のちに薬剤師と改称)を創設して薬学の専門職業人をつくった。こうして薬学が医学より分離したわけであるが、その要因としては、不良医薬品の横行に対する専門知識をもった技術者による鑑別、医薬品創製の必要性が増大したことなどがあげられる。
ヨーロッパでは古くから薬局において徒弟制度による薬学教育が行われ、18世紀には薬局の業務として(1)医師の処方による調剤および販売、(2)医薬品の製造、(3)地域住民に対する公衆衛生の指導が行われている。これは現在の薬剤師の職能に通ずるものである。日本の薬学は有機化学をはじめとする基礎化学分野において優れた業績を残しており、最近では創薬の面においてもきわめて有効な医薬品の開発が活発であるが、医療関係の薬学が欧米より遅れており、医療薬学(病院薬学ともいう)についての実地研修がまだ義務づけられていない。一方、医薬品の進歩発展に伴ってその副作用も多く発現、社会問題化している。したがって、医薬品に関する情報の収集・整理・伝達といった医薬品情報活動も薬学の一分野として発展し、ここに社会薬学が新しく登場した。これらは化学物質による公害、食品添加物など衛生化学的な面も含めて研究が行われている。また、学校薬剤師制度は新しい薬剤師の活躍の場で、学校を取り巻く環境の整備、生徒の健康保持に役だっている。なお、薬学教育は、薬剤師の養成のみならず、研究者や教育者の養成もその目的とする。
[幸保文治]
大学基準協会では、薬学教育基準として専門教育科目を基礎薬学と応用薬学に分け、詳細に示している。すなわち、基礎薬学分野は有機化学、物理化学、生物学の三つの系、応用薬学分野は製薬学、医療薬学、衛生薬学、応用共通の4つの系から成り立っている。
基礎薬学の授業科目としては、有機化学系では有機化学・天然物化学・反応有機化学・有機合成化学・構造有機化学・生物有機化学・錯体化学・無機化学など、物理化学系では分析化学・物理化学・放射化学・機器分析学・生物物理化学・量子化学・物性物理化学など、生物学系では生化学・機能形態学・薬用植物学・微生物学・微生物化学・免疫学・病理学・病態整理学・病態生化学・組織化学などがあげられる。
応用薬学の授業科目としては、製薬学系では生薬(しょうやく)学・薬品製造学・化学工学概論・製剤学・品質管理学・生物医薬品学・医薬品試験法・生物学的試験法など、医療薬学系では薬剤学(調剤学なども含む)・薬理学または薬物学・臨床医学概論・薬物治療学・病院薬学概論・医薬品管理学・薬局管理学・薬物代謝および薬物速度論・放射薬品学・臨床化学など、衛生薬学系では衛生化学(公衆衛生学を含む)・毒性学・食品衛生化学・環境科学概論・裁判化学・衛生試験法など、応用共通系では日本薬局方・薬事関係法規・薬学概論・医薬品情報科学・医薬品総論などがあげられ、さらに病院実習またはこれに準ずる研修を履修させることが望ましいとされている。
[幸保文治]
『小山泰正編『薬学外論―薬学から市民へのメッセージ』(1987・薬業時報社)』▽『根本曽代子著『日本の薬学』(1981・南山堂)』
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…薬剤師が販売または授与の目的で調剤の業務を行う場所。薬事法と医療法によって規定されているが,病院や診療所の調剤所は法的には別に扱われる。薬局の構造設備については,その面積,換気等の清潔の保持,照明度,調剤室の設置,保存設備,調剤・試験に必要な設備・備品等が詳しく規定された,厚生省令の定める基準に適合していなければならない。 薬局は,処方調剤を行い,患者に授与し対価を受ける場であると同時に,医薬分業が不徹底な日本の場合は,一般大衆薬を販売する場でもあり,薬剤師が行う技術に対して支払われる技術料を受ける場であると同時に,〈医薬品〉という商品の流通の末端を担う商行為の場という二面性をもっている。…
※「薬学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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