栗真庄(読み)くるまのしよう

日本歴史地名大系 「栗真庄」の解説

栗真庄
くるまのしよう

車庄または車間庄とも書く。現白子しろこ町の近鉄しろこ駅付近に栗真くりまの字名があり、同町には式内久留真くるま神社もある。荘域は白子町北端として、南方なかノ川流域から現安芸あげ河芸かわげ町、津市の北方にわたり、一部は旧安濃あのう郡にも及んでいたと推定しうる。立荘の経緯は不明であるが、嘉承二年(一一〇七)一二月日の摂関家政所下文(朝野群載)には「摂政右大臣家政所下、伊勢国稲生社并栗真御庄 可早任年来例且停止彼此非論且召集濫行下手人事」とみえる。稲生いのう社の神田を荘民が押領し、神人に傷を負わせたことにつき、下手人の逮捕を領主の摂政藤原忠実が命じたものである。こののち、保延五年(一一三九)郡山こおりやま新宮(現郡山町酒井神社)に荘の田三反を寄進するよう現地荘官に命じた下文(酒井神社文書)がある。

<資料は省略されています>

領主は依然忠実(前関白)で、高階朝臣は預所であったのであろう。酒井さかい神社は稲生神社より勧請されたので郡山新宮とも称され、同じく三社からなっていた。服部はとり七尾前ななおざき里は、現河芸町東千里ひがしちさと付近一帯である。

吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二九日条に「栗真庄 因幡前司広元」とあり、鎌倉時代初めには大江広元が地頭であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報