根田村(読み)ねだむら

日本歴史地名大系 「根田村」の解説

根田村
ねだむら

[現在地名]白河市萱根かやね田中山たなかやま

大和田おおわだ村の西方阿武隈川の支流高橋たかはし川沿岸に位置する。奥州道中の宿駅で、集落は南北両側に連なる。奥州道中は白河城下の北側で会津方面に通じる白河街道(会津街道)と仙台方面に通じる本街道に分岐し、当村はその最初の村。東は新小萱にこがや村と軒を並べる。幕末の東奥行程記(盛岡市公民館蔵)には「是より海道右の山根に添て暫行て涌水あり、涌出る勢洪大にして清水也、根田の大清水といふ、此辺小坂道にて岩多し、五六丁行て宿に入る、白川郡根田 二十三丁 一、宿入口柵あり、小橋あり、中堰にて町短し、下宿なり」と記される。


根田村
こんだむら

[現在地名]合川町根田

北流する小阿仁こあに川下流域、小阿仁沢こあにさわの入口に位置する。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「六拾八石九斗弐升一合 (三カ)つ里村 こん田村」とみえる。中世後期を通じ嘉成氏領であったが、天正初め頃安東(秋田)氏領。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に新田として二三三石とあるが、享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保元禄誤新田出」とある。


根田村
ねだむら

[現在地名]市原市根田

郡本こおりもと村の南に位置する同村枝郷。地内に上総国分尼寺跡がある。平将門が祇園社を建立したとする所伝があり、祇園ぎおん原には牛頭天王が鎮座していた。元禄郷帳に村名がみえ、高一八八石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二〇〇石で家数二六、旗本井上領。天保九年(一八三八)の家数二六・人数一三〇、すべて農業一派渡世(飯香岡八幡宮文書)。同八年井上氏に年貢先納として二〇両を出したが、同九年には年貢納入に困り、八幡やわた村の紀伊国利八に五〇両を借用している(高橋家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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