桜山村
さくらやまむら
桜山丘陵の北側に東西に長く広がる。東は沼間村、北は池子村・山野根村・逗子村に接し、西の小坪村新宿との境を田越川が流れる。村の西端は海に面し、南は堀内村・長柄村(現三浦郡葉山町)に続く。「吾妻鏡」建久五年(一一九四)八月二六日条に「逍遥多古江河辺給」とあり、田越川周辺は鎌倉将軍家の保養遊覧地であったと思われる。
桜山村
さくらやまむら
[現在地名]上月町桜山
才元村・金子村の北、桜山川上流域に位置する。東は植木谷村・大猪伏村(現佐用町)、北は美作国吉野郡牛飼宮原村(現岡山県作東町)。下桜・上桜・樺坂の三集落よりなり、上桜は最高地点は標高三九九メートルの高位谷地に立地する。江戸時代の領主の変遷は寛永一七年(一六四〇)までは上月村に、以後は平尾村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方二三五石余・畠方八二石余,旱損所の注記がある。
桜山村
さくらやまむら
[現在地名]下郷町中山
水抜村の北、阿賀川支流大沢川上流域の山村。下野街道が通る。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、高五五六石余。南山御蔵入領楢原組に属する。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」では楢原郷のうちに村名がみえる。貞享二年(一六八五)の「楢原郷地下風俗覚書」によれば、寒冷の高山地のため農間に地竹でのざる籠作り、苧麻の栽培、わらびなどの山菜採りに従事して収入を得ていた。元禄四年(一六九一)の万覚書帳(下郷町史資料集)では高二七四石余、反別田六町三反余・畑四三町八反余、家数三五・竈数三六、うち水呑・名子六、人数一九八、馬二五。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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