子市(読み)ずしし

日本歴史地名大系 「子市」の解説

子市
ずしし

面積:一七・八六平方キロ

三浦半島の頸部に相模湾に面して位置。丘陵性山地に囲まれた田越たごえ川沖積平野にある。北は鎌倉市、東・南は横浜市金沢かなざわ区・横須賀市・三浦郡葉山はやま町に接し、葉山町との境界に市内最高峰二子ふたご(二〇七・九メートル)がある。東境界鷹取たかとり(一二一・六メートル)から神武寺じんむじ山塊が西に延びる。遠浅の逗子海岸の南端は鳴鶴なきつるヶ崎、北は披露ひろ台地の西端おお崎を回って狭い小坪こつぼ湾を抱え、さらに飯島いいじま崎で鎌倉市に接する。

逗子は、豆師・図師・厨子・豆子の字があてられ、俗説では延命えんめい寺の延命地蔵尊の厨子からでた地名という。「ずし」の語義として、通抜けのできる道、または交差する所とか、小路・横町などの意味をもつ京都の言葉、草分百姓の開発単位などの説がある。天正一八年(一五九〇)三月七日の北条家朱印状写(県史三)に「豆師」の名がある。

〔原始・古代〕

縄文時代前期には逗子の入江は、現在の標高五メートルの等高線まで湾入していた。早期縄文人は標高五〇メートルの披露台地や沼間小池ぬままこいけいりいりに生活し、中期縄文人は鳴鶴ヶ崎の標高八メートルの、当時の汀線上に土器片や黒曜石片を残す。南部丘陵の持田もつた遺跡には弥生時代中期から平安時代に続く集落が形成された。披露台地には縄文から続く集落跡がある。逗子湾に沿う丘陵の麓を縫って古東海道が通じていた。七―八世紀の新宿しんじゆく横穴群・山の根やまのね横穴群が開口し、新宿横穴群からは鈴釧・ガラス玉・水晶製切子玉・琥珀玉装飾具が火葬骨とともに出土している。

古く逗子湾の低地は沼浜ぬはま郷とよばれ、天平勝宝元年(七四九)と思われる正倉院の調布墨書によれば、「鎌倉郡沼浜郷戸主大伴部広麻呂」が調布を東大寺に奉納している。当市域は後に三浦郡となるが古くは鎌倉郡に属し、有力豪族大伴氏の勢力下にあって中央と深い関係をもっていたと思われる。神武寺・岩殿がんでん寺などは、縁起によれば奈良時代の創立という。

一一世紀中葉三浦氏が衣笠きぬがさ(現横須賀市)に拠り、一二世紀中葉にかけて一族を開発名主として三浦半島各地に置いた。三浦義明の長男杉本太郎義宗は杉本すぎもと(現鎌倉市)に、六郎重行は杜戸もりと(現葉山町)に、次男義澄の子有綱は山口やまぐち(現葉山町)にと三浦半島北部が固められるが、沼浜郷には源義朝の沼浜別邸があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報