梁川城跡(読み)やながわじようあと

日本歴史地名大系 「梁川城跡」の解説

梁川城跡
やながわじようあと

[現在地名]梁川町 鶴岡・桜岳

阿武隈高地から西へ延びる支丘突端部(標高五七メートル)に位置し、南西広瀬ひろせ川が流れる。南北約六〇〇メートル・東西約四〇〇メートルの梯郭式の台城。伊達氏の始祖朝宗によって築かれたとも(信達二郡村誌)、伊達氏三代義広が築いた粟野大あわのおお館が当城にあたるともいわれる(伊達正統世次考)

応永二〇年(一四一三)四月、伊達持宗は関東公方足利持氏の軍と戦い、敗れて当城に移ったという(「鎌倉大日記」など)。持宗は同三三年梁川八幡宮を、嘉吉元年(一四四一)には輪王りんのう寺を当城近くに建立し(伊達正統世次考)、伊達氏の居城として整備されていったとみられる。文明一五年(一四八三)一〇月の伊達成宗の上洛は当城からとされ(「実隆公記」同月一〇日条、「伊達正統世次考」など)、長享二年(一四八八)一月には大崎義兼が家中内訌のため「伊達簗川」に逃れてきたが、伊達尚宗の援助により復帰し、家を継いでいる(同世次考)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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