勝竜寺城(読み)しょうりゅうじじょう

日本の城がわかる事典 「勝竜寺城」の解説

しょうりゅうじじょう【勝竜寺城/勝龍寺城】

京都府長岡京市にあった南北朝時代から江戸時代初期にかけての平城(ひらじろ)。南北朝時代初めの1339年(延元4、暦応2)に、南朝方に備えて京都を防御する城として細川頼春が築いたといわれてきたが、山城国守護の畠山義就が郡代役所として築城したとする推定も出てきており、築城者や築城の経緯は明らかではない。1568年(永禄11)、足利義昭を奉じて上洛をめざした織田信長は、近江の六角氏を降して京都を目前にしたころ、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚らに命じて、三好三人衆の岩成友通が守る勝竜寺城を攻撃させた。上洛を果たした信長は5万の兵を率いて勝竜寺城の攻城に向かったことから、勝竜寺城は降伏・開城、織田氏の属城となった。1571年(元亀2)、信長から山城国西岡一帯を与えられた細川藤孝は勝竜寺城に入城し、二重の堀を持つ堅固な城に改修した。藤孝は1581年(天正9)に丹後国に入封し、勝竜寺城には村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助が入城した。翌1582年(天正10)の本能寺の変後には、明智光秀の属城となった。同年の山崎の戦いで羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に敗れた光秀は勝竜寺城に帰城したが、秀吉勢の追撃を受けて、同城を脱出し本城の坂本城に向かう途中で討ち死にした。秀吉は山崎の戦いの翌日、勝竜寺城に入城している。その後、勝竜寺城は淀古城(京都市)の修築にその石材が使用されるなどしたこともあって荒廃した。1633年(寛永10)、長岡藩主となった永井直清は荒廃していた勝竜寺城の修築を行おうとしたが、幕府にそれを止められている。1649年(慶安2)、直清が摂津国高槻藩に転封になると、勝竜寺城は廃城となった。現在、本丸と沼田丸趾が勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓(やぐら)などがつくられている。同公園北東の神足神社境内に空堀や土塁が残っている。JR京都線長岡京駅から徒歩すぐ。◇小竜寺城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の勝竜寺城の言及

【長岡京[市]】より

…中央部には菅原道真をまつる長岡天満宮があり,ツツジの名所として知られる。小畑川の西岸にあった勝竜寺城は,応仁の乱の際,この地域における西軍の拠点であった。東海道本線,阪急京都線,国道171号線が南北に貫き,京都,大阪への交通の便がよいため,1960年前後から急激に宅地化が進んだ。…

※「勝竜寺城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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