森田節斎(読み)もりた せっさい

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

森田節斎 もりた-せっさい

1811-1868 幕末の儒者。
文化8年生まれ。頼山陽に師事し,昌平黌(しょうへいこう)にまなんで京都,備中(びっちゅう)(岡山県)倉敷などに塾をひらく。梅田雲浜(うんぴん)らとまじわり,門下から尊攘(そんじょう)家がおおくでた。天誅(てんちゅう)組の変のあと紀伊(きい)那賀郡(和歌山県)にかくれ,慶応4年7月26日死去。58歳。大和(奈良県)出身。名は益。字(あざな)は謙蔵。別号に節翁。著作に「節斎翁文稿」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

森田節斎

没年:明治1.7.26(1868.9.12)
生年:文化8(1811)
江戸後期の儒学者,志士。名は益,通称謙蔵,節斎,または節庵,愚庵と号す。大和(奈良県)五条の人。父文庵は医者。文政8(1825)年京都に出て猪飼敬所に就き,さらに11年頼山陽に学ぶ。12年より昌平黌に入り,安井息軒,塩谷宕陰らと相識る。弘化1(1844)年江木鰐水の『山陽先生行状』を強く論難する。京都に塾を開き尊攘論を唱え,吉田松陰,乾十郎ら尊攘志士を輩出し,また頼三樹三郎,梅田雲浜,宮部鼎造らと親しく交わる。文久1(1861)年倉敷に移る。門人原田亀太郎が天誅組に参加し,自らは中川宮朝彦親王へ上申するなどの運動で幕府に目をつけられたため,紀伊国に逃れ髪をおろし愚庵と号し,那賀郡花見村に没す。<著作>『節斎遺稿』<参考文献>片山孟郷『節斎森田先生行状』

(沼田哲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

精選版 日本国語大辞典の解説

もりた‐せっさい【森田節斎】

江戸後期の儒学者。名は益。字は謙蔵。大和国(奈良県)五条の人。京都に出て猪飼敬所、頼山陽に学び、後江戸の昌平黌にはいって塩谷宕陰らと交わる。程朱学を主として孟子・史記に精通し、文章をもって鳴った。備中国(岡山県)、京都、備後国(広島県)などに塾を開き、尊攘を主張し、門下に勤王家を多く輩出した。晩年は幕府の偵察を避けて剃髪して愚庵と号した。妻の無該女史も詩文をよくした。著「桑梓景賢録」「節斎遺稿」「節斎文稿」など。文化八~明治元年一八一一‐六八

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