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梅田雲浜 うめだ うんぴん

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美術人名辞典の解説

梅田雲浜

幕末の志士。若狭国小浜藩士矢部岩十郎義比の次男。本姓は矢部、名は義質・定明、通称は源二郎、別号を湖南・東塢。朱子学を学ぶ。幕府批判により追放され浪人となる。尊王攘夷を唱え、将軍継嗣問題では一橋派に属し、大老井伊直弼排斥を企てたため、安政の大獄の際捕らえられた。安政6年(1859)歿、45才。贈正四位。

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デジタル大辞泉の解説

うめだ‐うんぴん【梅田雲浜】

[1815~1859]江戸末期の尊攘(そんじょう)派志士。若狭小浜藩士。名は定明。通称、源次郎。雲浜は号。山崎闇斎の学派に学び、攘夷を唱え、ロシア軍艦襲撃を企てた。将軍継嗣では一橋派に立ち、井伊大老排斥を策動。安政の大獄で獄死。

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百科事典マイペディアの解説

梅田雲浜【うめだうんぴん】

幕末の志士。儒者。若狭(わかさ)国小浜(おばま)藩士。通称源次郎。京都望南軒や藩儒山口管山(かんざん)に学ぶ。崎門学者として名をあげ,近江(おうみ)国大津に湖南塾を開き,また望南軒講主として諸生に教授した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

梅田雲浜 うめだ-うんぴん

1815-1859 幕末の武士。
文化12年6月7日生まれ。若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩士。嘉永(かえい)5年藩政批判で士籍をうばわれる。ペリー来航後は梁川星巌(やながわ-せいがん)とともに京都の尊攘(そんじょう)派の中心人物となり,日米通商条約調印反対,大老井伊直弼(なおすけ)の排斥などを画策。安政の大獄で最初に捕らえられ,安政6年9月14日獄死した。45歳。本姓は矢部。名は定明。通称は源次郎。別号に湖南,東塢。

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朝日日本歴史人物事典の解説

梅田雲浜

没年:安政6.9.14(1859.10.9)
生年:文化12.6.7(1815.7.13)
幕末の若狭小浜藩(福井県)藩士,尊攘派志士。父は矢部義比,母は武川又兵衛の娘。通称源次郎,号の雲浜は小浜海岸の異名。崎門学を修め,天保14(1843)年京都で小浜藩の塾望楠軒の講主となる。海防に関する建言が藩主酒井忠義の忌諱に触れ,嘉永5(1852)年士籍剥奪。「君が世を思ふ心の一筋に吾身ありとは思はざりけり」はこのころの歌。ペリー来航におよび各地を奔走。安政5(1858)年,京都で梁川星巌と条約不可,一橋慶喜擁立,井伊直弼排斥を青蓮院宮に入説。時の幕政を批判する内容の戊午の密勅降下にかかわり,安政の大獄で捕らわれ江戸に檻送。翌年幽囚中に病没した。<参考文献>佐伯仲蔵編『梅田雲浜遺稿並伝』,小浜市教育委員会『梅田雲浜』

(三井美恵子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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防府市歴史用語集の解説

梅田雲浜

小浜藩[おばまはん](福井県)出身の志士。尊王攘夷を実行しようと活動しましたが、安政の大獄で牢に入れられ、病死しました。

出典|ほうふWeb歴史館
Copyright 2002,Hofu Virtual Site Museum,Japan
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世界大百科事典 第2版の解説

うめだうんぴん【梅田雲浜】

1815‐59(文化12‐安政6)
幕末の儒学者,志士。名は定明,通称源次郎,雲浜は号。小浜藩士矢部家生,祖父の実家梅田姓を名のる。藩儒山口菅山に入門,のち京都望楠軒講主となり崎門(きもん)学者として著名。1852年(嘉永5)藩政批判のゆえに士籍を失うが尊攘論を唱え政界で活動,内政・外交ともにはげしく幕政を批判,〈悪謀の四天王〉の中心と目される。安政の大獄の逮捕第1号として取調べ中に病死。【山口 宗之】

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大辞林 第三版の解説

うめだうんぴん【梅田雲浜】

1815~1859) 幕末の尊攘派の志士。若狭わかさ小浜おばま藩士。名は源次郎。1852年藩政や外交問題について建言して士籍を除かれた。将軍継嗣問題では一橋派となり、井伊大老排斥を企てたが、安政の大獄で逮捕され、牢中で病死。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

梅田雲浜
うめだうんぴん

[生]文化12(1815).若狭,小浜
[没]安政6(1859).江戸
江戸時代末期の勤王家。若狭小浜の藩士。名は定明,通称は源次郎。山崎闇斎学派に学ぶ。藩政や海防策について藩主にしばしば建言したため士籍を除かれる。ペリー来航のとき,攘夷の立場に立ち,在京の浪士と連携し,また長州藩の尊攘派に奮起を促した。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

梅田雲浜
うめだうんぴん
(1815―1859)

若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩士、名は義質(よしただ)、のち定明(さだあきら)。通称源次郎。雲浜は号。小浜藩士矢部氏の次男に生まれ、のち祖父の生家梅田氏を継いだ。崎門(きもん)学を尊王の学風ある江戸の山口菅山(かんざん)に学んだ。帰藩して大津、ついで京都に赴き、崎門の学塾望楠軒(ぼうなんけん)講主となり、梁川星巌(やながわせいがん)や頼三樹三郎(らいみきさぶろう)ら志士と交際を深め、1852年(嘉永5)小浜藩に藩政改革の建言をして士籍を削られた。ペリー来航には、江戸で吉田松陰(しょういん)らと対策を論じ、水戸へも遊説した。また大和(やまと)十津川(とつかわ)の郷士を組織し、大坂湾に現れたロシア軍艦の撃攘(げきじょう)や、京都の守護に郷士を任ずる周旋をした。1856年(安政3)に長州藩に遊説して、同藩と京都、奈良、十津川間の物産交易の仲介をした。戊午(ぼご)の密勅にも彼の働きかけがあったが、密勅降下の際には、あらかじめ水戸藩に内報するなど、つねに尊王攘夷運動の中心に位置した。このために安政(あんせい)の大獄で最初に捕らえられ、江戸で獄死した。[井上勝生]
『佐伯仲蔵著『梅田雲浜遺稿並傳』(1929・有朋堂) ▽日本史籍協会編『続日本史籍協会叢書 梅田雲浜関係史料』(1976・東京大学出版会)』

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