森脇村(読み)もりわきむら

日本歴史地名大系 「森脇村」の解説

森脇村
もりわきむら

[現在地名]比和町森脇

吾妻あづま山の南西麓にある。南流する比和川両岸に耕地が分布し、標高五〇〇メートル前後の高冷地。東は三河内みつがいち村の越原谷おつぱらだに福田ふくだ、南は比和村、北西は上湯川かみゆかわ(現高野町)と接する。

中世にはじび庄の北部にあたり、文応二年(一二六一)二月二八日付千光寺領備後地庄本郷内領家職田数目録案(山内首藤家文書)に「森脇」とみえる。正和五年(一三一六)に同庄の地頭山内通資が関東から新市しんいち(現高野町)に移住するが(芸藩通志)、それ以前は当地の錦山にしきやま城に拠る森脇氏が地庄北部一帯に勢力を有したと伝える。森脇氏滅亡後は山内氏の家臣湯浅肥前広吉が当村に配されたというが(芸藩通志)、詳細は不明。


森脇村
もりわけむら

[現在地名]福山御幸みゆき町森脇

芦田あしだ川が神辺かんなべ平野から福山平野に直角に曲がって流れ込む北岸に開けた平野に位置し、古くは穴海あなのうみとよばれた神辺平野中央南寄りの低地。芦田川の度々の氾濫原となった。芦田川の支流ふる川・しん川・すな川が流れる。中世には石成いわなり庄に含まれ、元和五年(一六一九)の備後国知行帳でも下岩成しもいわなり村のうちに含まれる。「寛文朱印留」にも村名はみえず、元禄一三年(一七〇〇)の検地で初めて独立村となった。高七二七石余。「福山志料」によれば反別七七町余、うち畠四四町余、一一二戸・四八四人。

かつて当地に芦田川の淵があり卒都婆が淵そとばがふちとよばれ、昔上岩成に光台こうだい寺があった頃、年々施餓鬼を行っていたと伝える。


森脇村
もりわきむら

[現在地名]東城町粟田あわた 森脇

塩原しおはら村の東に位置し、南は粟田村。北から当村に流れ入る千鳥ちどり川は、落合おちあいで北東から流れてくる小串おぐし川を合わせ、村内東部を蛇行しながら南流して粟田村に入る。この両河川に沿う狭い谷間にわずかに田畑が開け、人家が散在する。四周は高い山に囲まれる。粟田村内に飛郷大西谷おおにしだにがある。粟田村から分れた村というが、その年代は不明(国郡志下調書出帳)


森脇村
もりわきむら

[現在地名]村岡町森脇

福岡ふくおか村の西にあり、集落は湯舟ゆぶね川支流和池わち川左岸の山麓に発達。北東は黒田くろだ村。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「もりわき村」とみえる。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)では高七六石余。寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも高は同じ。天保郷帳では高八八石余。森脇神社は古くは一之宮大森いちのみやおおもり大明神と称し、宝暦八年(一七五八)に社殿を再建(明治一二年調「神社明細帳」)。前掲「但馬国にしかた日記」に禰宜殿とみえるのは同社神職であろう。


森脇村
もりわきむら

[現在地名]御所市大字森脇

葛城山東南麓、楢原ならばら村の南に接する。当村東方に高野こうや街道、西方に一言寺いちごんじ道がそれぞれ南北に貫通する。森脇の森は吐田はんだ大森で、応永二五年(一四一八)の吐田庄注進文(春日神社文書)にも「一言主宮北、吐田大森」の地名を記す。浄福じようふく(浄土宗)の十一面観音は平安末期、阿弥陀如来は同中期の作。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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