楠木繁夫(読み)クスノキ シゲオ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「楠木繁夫」の解説

楠木 繁夫
クスノキ シゲオ


職業
歌手

本名
黒田 進

生年月日
明治37年 1月20日

出生地
高知県 高岡郡佐川町

学歴
高知一中〔大正11年〕卒 東京音楽学校(東京芸術大学)声楽科〔昭和3年〕中退

経歴
医師の四男。高知一中を6年かかって卒業した後、一浪し、大正13年東京音楽学校(東京芸術大学)乙種師範科に入学。同科修了後、本科声楽科に進んだが(同期に伊藤武雄と園田誠一がいた)、昭和3年学園紛争の首謀者として友人の高木東六らと退学処分となった。以後、大阪のツルレーベルから本名で「菖蒲踊り」「五月音頭」を吹き込んだのを皮切りに、秋田登、大山利夫、浜口淳、藤村一郎、東海林次郎、津村忠、長谷川史郎、徳山進、松平操などの芸名で数多くのレコードを吹き込む。昭和9年テイチクと契約、同社創業者の南口重太郎が“なんこう”繋がりで楠公こと楠木正成を崇拝していたことから楠木正成にあやかって楠木繁夫を名乗った。古賀政男とのコンビで「国境を越えて」「男ごころ」「影を慕いて」などを吹き込んだ後、10年「緑の地平線」が大ヒットして一躍スター歌手の仲間入りを果たした。以降、ディック・ミネ藤山一郎とテイチクを支えたが、14年ビクター、17年コロムビアへ移籍。18年歌手の三原純子と結婚。20年疎開先の岐阜県白川郷で敗戦を迎えた。戦後は22年、自ら作曲した「思い出の喫茶店」で復帰。24年久保幸江と歌った「トンコ節」がヒットしたが、同年テイチクへ移籍。26年第1回「紅白歌合戦」に出場したが、その後は低迷し、31年自宅物置で縊死した。他の代表曲に、「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「慈悲心鳥の唄」「女の階級」「紅い燃ゆる地平線」などがある。

没年月日
昭和31年 12月14日 (1956年)

家族
妻=三原 純子(歌手)

伝記
緑の地平線に消えた男―悲劇の歌手・楠木繁夫とその時代小沢昭一的流行歌・昭和のこころ 戸梶 良 著小沢 昭一,大倉 徹也 著(発行元 講談社出版サービスセンター新潮社 ’06’03発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「楠木繁夫」の解説

楠木 繁夫
クスノキ シゲオ

昭和期の歌手



生年
明治37(1904)年

没年
昭和31(1956)年12月14日

出生地
高知県

本名
黒田 進

学歴〔年〕
東京音楽学校〔昭和2年〕中退

経歴
中学校教師となったが昭和4年オリエント・レコードから本名で歌を吹き込み、その後二十余の芸名を使って活動。9年テイチクに入って楠木繁夫と名乗った。10年「白い椿の唄」「緑の地平線」、11年「女の階段」などが大ヒット、13年「人生劇場」も吹き込んだ。14年日本ビクター、17年日本コロムビアに移り、「轟沈」などを吹き込み、戦後は「トンコ節」がヒット。18年人気歌手の三原純子と結婚し、戦後初期のNHK紅白には夫婦で出演したこともある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「楠木繁夫」の解説

楠木繁夫 くすのき-しげお

1904-1956 昭和時代の歌手。
明治37年1月20日生まれ。昭和9年テイチクに入社,翌年の「緑の地平線」や13年の「人生劇場」などで人気をえた。14年日本ビクター,17年日本コロムビアに移籍。歌手三原純子は妻。昭和31年12月14日死去。52歳。高知県出身。東京音楽学校(現東京芸大)中退。本名は黒田進。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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