デジタル大辞泉
「藤山一郎」の意味・読み・例文・類語
ふじやま‐いちろう〔ふぢやまイチラウ〕【藤山一郎】
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藤山 一郎
フジヤマ イチロウ
- 職業
- 歌手,作曲家
- 専門
- テノール,指揮
- 本名
- 増永 丈夫
- 生年月日
- 明治44年 4月8日
- 出生地
- 東京市 日本橋区蛎殻町(東京都 中央区)
- 学歴
- 東京音楽学校(東京芸術大学)声楽科〔昭和8年〕卒
- 経歴
- 生家は東京・日本橋の呉服屋で、5人きょうだい(3男2女)の末っ子。6歳からピアノを習い、また、長姉の夫の親族に日本女子音楽学校校長の山田源一郎がおり、幼稚園からの帰りには同校長室の山田を訪ねてピアノを弾いてもらったり、楽譜の読み方を教わったりした。大正7年慶応幼稚舎に入学。8年すぐれた音楽の素養を持っていたことから、同舎音楽教師で作曲家の江沢清太郎に抜擢され、童謡歌手として江沢作曲の「はね橋」「春の野」などをレコードに録音。その後、江沢の方針から歌唱を一時中断してピアノやバイオリンなどの練習に専念。13年慶応普通部に進んでからは弘田龍太郎にピアノを学ぶ一方、ラグビーに打ち込み、音楽と体育の成績は上々であったがそれ以外は悪く、卒業時の成績は同級生52人中51番目の成績であった。ちなみに52番目は画家の岡本太郎で、他の同級生に作家の野口富士男がいた。昭和4年東京音楽学校(東京芸術大学)に入学して声楽を専攻し、梁田貞に師事。しかし、折からの恐慌で生家が倒産、一家を支える必要性が出てきたことから、6年歌手として古賀政男作曲の「キャンプ小唄」を吹き込み、コロムビアからデビュー。当時、東京音楽学校ではアルバイトは御法度であったことから、友人の名前と日本一の富士山にちなみ、藤山一郎の芸名を名乗った。以降、歌手のアルバイトに熱中し、同年発表した古賀作曲の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」が大ヒット。やがてアルバイトの事実が学校に知られ、危うく退学処分となるが、その才能を高く評価していた梁田、弘田、プリングスハイムといった恩師らのとりなしもあり、在学中の副業禁止と1ヶ月の停学で事なきを得た。なお、すでに録音されていたものはそのまま発売され、その中には7年のヒット曲「影を慕いて」などがあった。8年同校を首席で卒業後、ビクターと契約して本格的に歌手となり、「赤い花」「僕の青春」などを発表。流行歌だけでなくジャズの翻訳やオペレッタなども歌い、また引き続き本名でクラシックの曲を手がけるなど、様々な楽曲を歌った。11年テイチクに移って古賀とのコンビを復活させ、同年「東京ラプソディー」「男の純情」、12年「青春日記」「白バラは咲けど」など多くのヒットを飛ばし、流行歌手として東海林太郎と人気を二分した。14年コロムビアに移籍。戦時中は海軍少佐総統官となして南方慰問団に参加。20年インドネシアのスラバヤで敗戦を迎えた後は、ジャワ島各地の捕虜収容所を転々とした。21年復員。22年から歌手としての活動を再開し、24年長崎で被爆した永井隆の随想を歌にした「長崎の鐘」、奈良光枝とのデュエットで歌った、石坂洋次郎原作映画の主題歌「青い山脈」が大ヒット。作曲も手がけ、同年NHK「ラジオ体操」が復活するとそのテーマソング「ラジオ体操の歌」を作曲、これは今日でもラジオ体操の冒頭に歌われている。また、無類の車好きでも知られ、同年肝臓膿瘍の手術をしてから歌手としての先行きに不安を感じ、車用品店ミッキーモータースを開店。26年第1回NHK「紅白歌合戦」に白組キャプテンとして出場し、以後、歌手・指揮者として60年まで全回出場。29年NHK芸能部嘱託。音楽活動の傍ら、慶応で学んだ福沢諭吉の奉仕精神に感化され、ボーイスカウトやロータリークラブでも活動した。47年日本歌手協会会長に就任。平成2年歌手生活60周年記念CD大全集を刊行。その歌唱は明朗快活、正しい発声と日本語の発音に重点を置き、4年には歌謡曲を通じて日本国民に希望と励ましを与えたこと、及び美しい日本語の普及に対する功績により、国民栄誉賞を授けられた(スポーツ選手以外では初となる生前の受賞)。著書に「藤山一郎自伝」など、作曲した作品に「慶応音頭」「鐘紡の歌」「夕月の歌」「わが子よ」「長崎市民歌」「ジャンボリーの歌」などがある。
- 所属団体
- 日本歌手協会(名誉会長),東京西ロータリクラブ,ボーイスカウト日本連盟
- 受賞
- 国民栄誉賞〔平成4年〕 紫綬褒章〔昭和48年〕,勲三等瑞宝章〔昭和58年〕 日赤特別有功章〔昭和27年〕,NHK放送文化賞〔昭和33年〕,社会教育功労賞〔昭和34年〕,日本レコード大賞特別賞(第16回 22回)〔昭和49年 55年〕,芸能功労者表彰(第7回)〔昭和56年〕,優良運転者緑十字交通栄誉章,東京都文化賞(第5回)〔平成1年〕
- 没年月日
- 平成5年 8月21日 (1993年)
- 伝記
- 藤山一郎とその時代藤山一郎 歌唱の精神藤山一郎自伝―歌声よひびけ南の空に昭和のすたるじい流行歌(はやりうた)―佐藤千夜子から美空ひばりへ歌声よひびけ南の空に―藤山一郎南方従軍記 池井 優 著菊池 清麿 著藤山 一郎 著塩沢 実信 著藤山 一郎 著(発行元 新潮社春秋社光人社第三文明社光人社 ’97’96’93’91’86発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
藤山 一郎
フジヤマ イチロウ
昭和・平成期の歌手(テノール),指揮者 日本芸能実演家団体協議会顧問。
- 生年
- 明治44(1911)年4月8日
- 没年
- 平成5(1993)年8月21日
- 出生地
- 東京・日本橋蛎殻町
- 本名
- 増永 丈夫
- 学歴〔年〕
- 東京音楽学校声楽科〔昭和8年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 日赤特別有功章〔昭和27年〕,NHK放送文化賞〔昭和33年〕,社会教育功労賞〔昭和34年〕,紫綬褒章〔昭和48年〕,日本レコード大賞特別賞(第16回 22回)〔昭和49年 55年〕,芸能功労者表彰(第7回)〔昭和56年〕,勲三等瑞宝章〔昭和58年〕,優良運転者緑十字交通栄誉章,東京都文化賞(第5回)〔平成1年〕,国民栄誉賞〔平成4年〕
- 経歴
- 音楽学校在学中の昭和5年に日本コロムビアからデビュー。以降国民的流行歌手として数々のヒットを生む。戦中は南方慰問団、海軍少佐総統官となり、21年帰国。代表作には「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」「長崎の鐘」「青い山脈」「影を慕いて」等多数。24年に作ったNHKラジオ体操のテーマソングは今も流れている。また、NHK紅白歌合戦に歌手・指揮者として全回出場を続けた。平成2年歌手生活60周年記念CD大全集を刊行。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
藤山一郎
ふじやまいちろう
[生]1911.4.8. 東京
[没]1993.8.21. 東京
歌手。本名,増永丈夫 (ますながたけお) 。東京音楽大学 (現,東京芸術大) 声楽科に在学中の 1930年初め頃から,『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』などを歌っていたが,当時,流行歌謡の歌手はクラシックの歌手に比べて認められていなかったこともあって,「覆面歌手」として活躍した。大学卒業後,『東京ラプソディ』など数々のヒット曲を歌って人気を得る。第2次世界大戦後,『青い山脈』『長崎の鐘』など新時代にふさわしい明るい歌声で一世を風靡した。小節など,それまでプロの歌手らしいとされていた歌い方をせぬ「楷書の歌唱」という独特の歌唱法で定評があった。 54年よりレコード会社の専属を離れ,NHK嘱託となる。 82年に勲3等瑞宝章,92年に国民栄誉賞を受賞した。
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藤山一郎
ふじやまいちろう
(1911―1993)
歌手。東京都生まれ。本名は増永丈夫。東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部)声楽科に入学、在学中に藤山一郎の名で日本コロムビアから古賀政男作曲の『キャンプ小唄』を出す。その後、古賀の曲で『酒は涙か溜息(ためいき)か』『丘を越えて』などを次々とヒットさせる。1933年(昭和8)に卒業、日本ビクターに入社し、のちテイチク、日本コロムビアなどに移籍した。戦後の1947年から1949年にかけて『夢淡き東京』『青い山脈』『長崎の鐘』など連続ヒットを飛ばした。1954年フリーになり、NHK「紅白歌合戦」の指揮者を務める。1963年に紫綬(しじゅ)褒章、1992年(平成4)に国民栄誉賞を受賞した。平成5年8月21日没。
[編集部]
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藤山一郎 ふじやま-いちろう
1911-1993 昭和-平成時代の歌手。
明治44年4月8日生まれ。学生時代にふきこんだ「酒は涙か溜息(ためいき)か」「丘を越えて」がヒット,以後「影を慕いて」など数おおくの古賀メロディーをうたう。戦後は「青い山脈」などのヒット曲で国民的歌手としてしたしまれた。平成4年国民栄誉賞。平成5年8月21日死去。82歳。東京出身。東京音楽学校(現東京芸大)卒。本名は増永丈夫(ますなが-たけお)。
【格言など】もっぱら言葉をはっきり歌うことを日頃,心掛けています
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藤山一郎【ふじやまいちろう】
歌手。本名増永丈夫。東京都生れ。東京音楽学校卒。クラシックから歌謡曲に転じ,《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》《東京ラプソディ》《長崎の鐘》《青い山脈》などのヒット曲を残す。1992年国民栄誉賞。
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藤山 一郎 (ふじやま いちろう)
生年月日:1911年4月8日
昭和時代;平成時代の歌手;指揮者
1993年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報