横山庄(読み)よこやまのしよう

日本歴史地名大系 「横山庄」の解説

横山庄
よこやまのしよう

横山谷一帯を庄域とした京都仁和にんな寺・施福せふく寺領。暦仁元年(一二三八)和泉国司は横山郷を一円不輸の槙尾まきお(施福寺)領庄園と認め、恒例・臨時の諸課役を免除して毎年の結縁灌頂費用に充てるよう留守所に命じた(同年一二月日「国司庁宣」施福寺文書)槙尾寺縁起(施福寺蔵)は宣旨によって堺四至に示を打ち立券庄号したのは延応元年(一二三九)という。また槙尾寺の灌頂堂は仁治年中(一二四〇―四三)仁和寺菩提院の行遍によって建立され、建長二年(一二五〇)行遍を大阿闍梨として初めての結縁灌頂が勤行されたという。正元元年(一二五九)後深草院からの横山庄への違乱をやめるようにとの宣旨が寺庫にありとする(前掲縁起)。弘安六年(一二八三)仁和寺菩提院権僧正了遍は、門跡領の槙尾寺と横山庄を禅助法印に譲渡している(同年正月一〇日「了遍所領等譲状」仁和寺文書)。おそらく前述行遍の時から槙尾寺は当庄とともに仁和寺菩提院領となっていたものであろう。横山庄の領家職を槙尾寺が、仁和寺が本家職をもっていたものとみられる。文明一三年(一四八一)四月仁和寺菩提院益遍僧正の伝法灌頂に横山から一貫文、槙尾寺から二貫文の助成をしているから(仁和寺文書)、仁和寺との関係は室町後期まで維持されていた。


横山庄
よこやまのしよう

甲武国境の要所に位置し、武蔵七党の一つ横山党(小野党)の拠点となった庄園で、船木田ふなきた庄との重層的関係が推定され、さらにはその別称の可能性が考えられる。建暦三年(一二一三)五月の和田義盛の乱では義盛と姻戚関係にあった武蔵国の御家人横山時兼が一族を引連れて義盛に同調、幕府軍に討伐されたとある(「吾妻鏡」建保元年五月五日・六日条など)。この横山一族は横山党であり、古代末期に小野おの牧の管理を行っていた小野氏を祖とする武士団で、多摩丘陵谷戸を開発しつつ、血縁で結ばれていたとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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