日本歴史地名大系 「横山庄」の解説
横山庄
よこやまのしよう
横山谷一帯を庄域とした京都示を打ち立券庄号したのは延応元年(一二三九)という。また槙尾寺の灌頂堂は仁治年中(一二四〇―四三)仁和寺菩提院の行遍によって建立され、建長二年(一二五〇)行遍を大阿闍梨として初めての結縁灌頂が勤行されたという。正元元年(一二五九)後深草院からの横山庄への違乱をやめるようにとの宣旨が寺庫にありとする(前掲縁起)。弘安六年(一二八三)仁和寺菩提院権僧正了遍は、門跡領の槙尾寺と横山庄を禅助法印に譲渡している(同年正月一〇日「了遍所領等譲状」仁和寺文書)。おそらく前述行遍の時から槙尾寺は当庄とともに仁和寺菩提院領となっていたものであろう。横山庄の領家職を槙尾寺が、仁和寺が本家職をもっていたものとみられる。文明一三年(一四八一)四月仁和寺菩提院益遍僧正の伝法灌頂に横山から一貫文、槙尾寺から二貫文の助成をしているから(仁和寺文書)、仁和寺との関係は室町後期まで維持されていた。
横山庄
よこやまのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報