多摩丘陵(読み)たまきゅうりょう

精選版 日本国語大辞典 「多摩丘陵」の意味・読み・例文・類語

たま‐きゅうりょう ‥キウリョウ【多摩丘陵】

東京都南西部と神奈川県北東部にひろがる丘陵。北側多摩川をへだてて武蔵野台地西側は境川をへだてて相模原台地に接している。丘陵全域が関東ローム層と呼ばれる赤土におおわれる。

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デジタル大辞泉 「多摩丘陵」の意味・読み・例文・類語

たま‐きゅうりょう〔‐キウリヨウ〕【多摩丘陵】

関東地方南西部、多摩川と境川との間の丘陵。西は高尾山麓から東は横浜市まで伸びる。宅地化が進行。

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日本歴史地名大系 「多摩丘陵」の解説

多摩丘陵
たまきゆうりよう

関東山地の南麓から東南東に向かって発達した第三系の地層で、三浦みうら半島まで延びている。一般に多摩丘陵というのは、横浜の西端、帷子かたびら川の線以北をさし、西の八王子市付近から東の鶴見つるみ(神奈川県横浜市鶴見区)付近まで約三八キロの範囲に及ぶ。北東は多摩川をへだてて武蔵野台地に接し、南西の縁は相模原台地となり、その境をさかい川が流れる。丘陵の幅は中ほどの府中―町田間で約一二キロ、東部の溝口みぞのくち(神奈川県川崎市高津区)星川ほしかわ(横浜市保土ヶ谷区)間で約一五キロである。標高は西端で二三〇メートル、東へ向かい町田付近で一〇〇メートル内外、東端では七〇メートルとしだいに低下する。

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改訂新版 世界大百科事典 「多摩丘陵」の意味・わかりやすい解説

多摩丘陵 (たまきゅうりょう)

関東平野南部,多摩川と境川の間に広がる丘陵。広くは東京西郊の八王子市から南南東にのびて三浦半島へと続く丘陵地を指すが,狭義には八王子市を流れる多摩川上流の浅川と,横浜市西部を流れる帷子(かたびら)川との間の地域を指す。西は境川をはさんで相模原台地へと続き,北は多摩川をはさんで武蔵野台地へと続く。また,東はほぼ川崎市多摩区登戸~横浜市保土谷区を結ぶ線を境に下末吉台地へと連続している。多摩丘陵は地形・地質的には,これらの台地と関東山地の間の性格をもち,丘陵背面をなす多摩面と呼ばれる地形面は台地よりは古く,関東山地よりは新しい中期更新世に形成された。関東山地に接する北西縁では標高約230m,南へしだいに高度を減じ,横浜市西部ではほぼ70mとなって下末吉台地へ続く。多摩丘陵は登戸と町田を結ぶ小田急線沿いにみられる標高100mの等高線付近を境として地形・地質上は二分される。北西側は,より起伏が大きく,厚い河成の砂礫層が分布し,南東側には北西側よりは新しい時代に形成された海成の堆積物が分布する。両地域とも厚い関東ローム層がこれらの堆積物を覆っている。斜面は広葉樹に広く覆われ,クヌギ,ナラ,カシなどが多く,尾根筋にはアカマツが多い。丘陵地の一部は都立自然公園に指定され,多摩動物公園などがある。

 尾根筋に残る丘頂平たん面や緩斜面は,古くから耕地として利用され,波状の丘陵地農業として研究の対象になってきた。おもな作物は,第2次大戦前は桑であったが,戦後は陸稲,大麦,小麦などの穀類やサツマイモが栽培された。最近では都市近郊農業として,野菜が主流を占めている。近年,首都圏の一画を占めるため都市化の波が急速に押し寄せ,京王電鉄相模原線,小田急多摩線,東急田園都市線など鉄道の新線建設,道路の整備とともに大規模な宅地造成が盛んに行われ,かつては林地や畑地であった斜面が雛壇状の住宅地に改変されている。このため,これらの沿線の地域を上流部にもつ鶴見川では,降雨時の流量が大きくなるなど,都市化に伴う新たな水害が頻発し,その対策に追われている。また多摩丘陵北部の八王子,町田,多摩,稲城の諸市にまたがる地域では,1960年代から多摩ニュータウンの建設がすすめられた。

 丘陵地では,多数の樹枝状に発達する谷とやせた尾根が交互に配置されており,古くからの交通路は谷筋や尾根筋に発達し,これらを横切る交通路は少なかった。多摩ニュータウンでも流域沿いの計画が中心となり,谷筋には道路が整備されつつあるが,尾根を横切る道路は不足している。八王子市の野猿峠の近くに1965年大学セミナーハウスが建設されたのをはじめ,最近は狭い都心の敷地を離れて,丘陵地に移転する大学も多い。なお《万葉集》巻二十には〈多摩の横山〉を詠んだ歌がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「多摩丘陵」の意味・わかりやすい解説

多摩丘陵
たまきゅうりょう

関東地方の南部、多摩川と境川(さかいがわ)との間に広がる丘陵。北西は高尾山麓(さんろく)から、南東は横浜市まで延びている。地形的には、丘陵の北東側は多摩川低地で武蔵野台地(むさしのだいち)と、西側は境川で相模原台地(さがみはらだいち)と区別される。北西部の八王子の南が220メートル内外でもっとも高く、南東へ向かってしだいに低くなる。溝口(みぞのくち)付近からは下末吉(しもすえよし)層からなる一段低い台地となり、横浜市の山手では40~50メートルとなり、海食崖(がい)で東京湾に臨む。丘陵面は侵食されて起伏に富んでいる。

 丘陵上には縄文時代遺跡、斜面から脚部には弥生(やよい)時代や古墳時代の遺跡が多数みられて、先史時代から開けていたことが知られる。そして古代には東海道が通じ、その近くが石川・立野(たての)両牧(まき)にあてられていた。平安末期からは武蔵七党の横山、西、綴(つづき)(都筑)諸氏による開拓が行われ、鎌倉・室町時代には丘陵の中央部と南東部には鎌倉街道が通じ、古戦場跡もみられる。江戸時代には江戸と東海地方や甲州とを結ぶ中原、矢倉沢(やぐらさわ)、津久井(つくい)の諸往還が通じていた。明治に入ると相模原台地とともに桑園化されて養蚕地域となり、昭和時代には、中央部に小田急電鉄小田原線、南東部に東急電鉄田園都市線、第三京浜道路が開通し、多摩ニュータウンの開発進展に伴い1974年(昭和49)から1990年(平成2)に北部に京王電鉄相模原線と小田急電鉄多摩線が開通、2000年(平成12)には多摩都市モノレールも通じた。また、ここは日本の東西連絡の交通幹線の通路にもあたり、南部に東海道・山陽新幹線、東名高速道路が通じ、新横浜駅、川崎・横浜青葉・横浜町田各インターチェンジは交通拠点となっている。こうして京浜の近郊にある多摩丘陵には諸大学の本・分校舎や研究所、多摩ニュータウンをはじめ、いくつもの大規模住宅団地やゴルフ場、多摩動物公園、よみうりランド、こどもの国などがつくられ、京浜都市群の教育・文化・住宅・レクリエーション地区として大きく変わりつつある。

[浅香幸雄]

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百科事典マイペディア 「多摩丘陵」の意味・わかりやすい解説

多摩丘陵【たまきゅうりょう】

東京都南西部から神奈川県三浦半島の基部まで広がる丘陵。第三紀層と洪積層(関東ローム)からなり,標高100〜200m,起伏に富む。丘陵上ではかつての養蚕,木炭生産に代わって野菜,麦,サツマイモ栽培が普及し,近年は住宅地化が著しい。武蔵野台地にまたがる約20km2が都立多摩丘陵自然公園に指定されている。
→関連項目青葉[区]神奈川[県]多摩ニュータウン都筑[区]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「多摩丘陵」の意味・わかりやすい解説

多摩丘陵
たまきゅうりょう

東京都西部,多摩川境川の間にある丘陵。八王子市付近から南東に延び,三浦半島に連続する。新第三紀層と関東ロームの洪積層からなり,東西約 38km,南北約 12~15km,標高約 100~200m。浸食谷が発達し,狭長な谷は谷戸(やと)と呼ばれる。第2次世界大戦前は薪炭を産したが,戦後は開拓が進み,陸稲,サツマイモ,ムギなどが栽培された。今日では交通の発達に伴い丘陵斜面の住宅地化が著しく,学校,遊園地も多い。その大規模なものに多摩ニュータウンがある。1950年多摩丘陵都立自然公園に指定。

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