横田荘(読み)よこたのしょう

百科事典マイペディア 「横田荘」の意味・わかりやすい解説

横田荘【よこたのしょう】

出雲国仁多郡の荘園。現島根県奥出雲町の斐伊(ひい)川上流域にあった。平安末期までには山城石清水八幡宮領として成立。鎌倉初頭に地頭三処(みところ)氏との間で年貢鉄・公事料銭春秋各50貫文で地頭請(じとううけ)が行われたが未進が続き,地頭権は北条氏に移った。1317年一部が皇室領(内裏供御料所・仙洞料所),さらにその一部は1389年に京都泉涌(せんにゅう)寺雲竜(うんりゅう)院領となった。この頃出雲守護山名満幸が横田荘を押領したが,明徳(めいとく)の乱一族は一掃され,戦国期には三沢氏が荘内に藤ヶ瀬城を築いて在地支配を強めた。なお御所への年貢貢進は戦国時代まで続いている。

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改訂新版 世界大百科事典 「横田荘」の意味・わかりやすい解説

横田荘 (よこたのしょう)

出雲国仁多郡横田地域にあった中世荘園。平安末期,出雲八所八幡の一つとして設定された横田別宮およびその周辺が荘園として成立したもの。能義(のぎ)郡安田荘とともに,出雲における石清水八幡宮領荘園として重視されたが,承久の乱以後,地頭三処(みところ)氏に押領されて大きく動揺し,鎌倉後期には石清水八幡宮から皇室の手に荘園領主権が移ったようである。以後,若干の出入りはあるものの,戦国期に至るまで皇室領荘園として維持された。三処氏のあとを受けて鎌倉後期から同荘地頭職を得た北条時輔死後,その母妙音尼は荘内岩屋寺を北条氏菩提寺として保護を加える一方,横田八幡宮を八川尾園村から馬場(現在地)に移して,ここを荘園支配の中心にすえたといわれる。山名満幸が仙洞御料横田荘を押領したことから明徳の乱が起こったとする《明徳記》の話はよく知られるところであり,室町・戦国期には三沢氏が在地支配権を掌握し,荘内に藤ヶ瀬城を築いて,周辺に勢力を張った。
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世界大百科事典(旧版)内の横田荘の言及

【横田氏】より

…出雲国仁多郡横田地域を基盤にして勢力を張った古代末・中世成立期の在地豪族。平安末期,この地域には出雲八所八幡の一つとして石清水八幡横田別宮(横田荘)が成立し,平安末・鎌倉初期の出雲における平家方勢力の一重要拠点をなした。横田氏は仁多郡司の系譜を引く在地豪族で,横田別宮(荘)の成立もこの横田氏の所領寄進にもとづくのではないかと推定されているが,《源平盛衰記》には一ノ谷の戦に平家方軍勢としてはせ参じた出雲国人の一人に横田兵衛尉維行の名がみえ,また1184年(元暦1)5月付の石見益田文書には,梶原景時が隣国石見国の御家人・在庁官人等に追伐を命じた平家方出雲国人として,同じく横田兵衛尉の名がみえる。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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