明徳の乱(読み)メイトクノラン

デジタル大辞泉 「明徳の乱」の意味・読み・例文・類語

めいとく‐の‐らん【明徳の乱】

元中8=明徳2年(1391)将軍足利義満挑発されて、山名氏清・満幸らが室町幕府に対して起こした反乱。氏清は戦死し、満幸はのちに殺され、山名氏の勢力は一時衰えた。

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精選版 日本国語大辞典 「明徳の乱」の意味・読み・例文・類語

めいとく【明徳】 の 乱(らん)

  1. 明徳二年(一三九一)、山名氏清・満幸らが、室町幕府に対して起こした反乱。一一か国の守護職をもつ有力大名山名氏の勢力を恐れた足利義満が、山名氏一族の内紛を利用して挑発。氏清は京都で戦死、満幸は出雲に逃れて山名氏の勢力は幕府におさえられた。

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改訂新版 世界大百科事典 「明徳の乱」の意味・わかりやすい解説

明徳の乱 (めいとくのらん)

1391年(元中8・明徳2)に山名氏清,山名満幸らが反幕府的行動を起こし,討たれた乱。山名氏は清和源氏新田氏の一族で,足利尊氏の挙兵に応じて活躍し,山陰地方を根拠として勢力を拡大した。観応の擾乱(じようらん)後,山名時氏は直冬党の最有力者となっていたが1363年(正平18・貞治2)幕府方に降り,丹波,丹後,因幡,伯耆,美作5ヵ国の守護職を安堵され,山名氏隆盛の基礎を築いた。足利一門斯波氏の最大の支持勢力となった山名氏は,幕府の権勢者佐々木高氏(道誉)の勢力を山陰地方から払拭していっそう強大となり,乱当時の山名氏一族の守護国は先の5ヵ国に出雲,但馬,隠岐,山城,和泉,紀伊の6ヵ国を加えて11ヵ国になり,六分の一衆と称された。3代将軍足利義満は南朝勢力の圧服を背景に,将軍専制権力確立の手段として,直属軍事力の強化とともに,強大化した守護勢力の削減を意図していた。明徳の乱のほか土岐氏の乱(1390),応永の乱(1399),さらに東国における小山義政の乱(1380-82)も,こうした幕府,将軍側の意図で挑発され惹起された事件である。

 山名氏は,時氏の没後惣領職を継いだ子時義の早世により,その子時煕(ときひろ),氏幸(うじゆき)が本貫的領国但馬,伯耆の守護職に任じた。このため時氏の長子師義の子満幸との間に内紛が起こり,満幸は叔父氏清と結んで時煕を幕府に訴えた。時煕討伐を命ぜられた満幸は伯耆,隠岐の守護職に補され,氏清は丹波守護職に補された。強大化した満幸は所領問題で将軍義満の意に違い,在京を停められ下国を命ぜられた。義満の挑発に乗った満幸は和泉の氏清や紀伊の義理(よしまさ)(氏清の兄)らと計らい,1391年12月挙兵し,三方から京都に進攻した。細川畠山大内氏らの幕府軍は,洛中での合戦の末これを破り,氏清は戦死し,満幸は丹後から伯耆に逃れ,義理は出家した。この乱の結果,山名一族の守護国は大きく削減され,時煕が但馬,氏幸が伯耆の守護職に還補されたほかは,畠山,細川,一色,赤松大内,佐々木氏などが分補された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「明徳の乱」の意味・わかりやすい解説

明徳の乱
めいとくのらん

1391年(元中8・明徳2)に山名氏清(やまなうじきよ)・満幸(みつゆき)らが室町幕府に対して起こした反乱。山名氏は南北朝時代、一族で11か国の守護職を保持して勢力を振るい、六分一殿(ろくぶんのいちどの)とよばれたほどであったので、将軍足利義満(あしかがよしみつ)はその強勢を警戒し、機をみてその勢力を削減したいと考えていた。1371年(建徳2・応安4)山名時氏(ときうじ)の死後、一族分裂の兆しをみた義満は、氏清(時氏の子)・満幸(氏清の弟師義(もろよし)の子)に命じて、一族の時煕(ときひろ)・氏幸(うじゆき)(ともに氏清の弟時義(ときよし)の子)が但馬(たじま)にあって幕命を奉じないのを理由に、これを追討させた。しかし、時煕らは義満に取り入って氏清らを讒言(ざんげん)し、義満がこれを用いて氏清らを抑えようとしたので、満幸は氏清を説き、氏清も兄義理(よしまさ)を誘って幕府に反旗を翻し、京都に進出した。義満はこれに対し、大内(おおうち)・畠山(はたけやま)・細川(ほそかわ)ら有力大名に追討を命じ、91年京都内野(うちの)(京都・二条城の北西、上京(かみぎょう)区と中京(なかぎょう)区にまたがる地域)の戦いで氏清らの軍を破った。この敗戦で氏清は戦死し、満幸は出雲(いずも)に逃れたが、94年(応永1)に討たれ、義理も敗走後行方不明になった。この結果、時煕に但馬、氏幸に伯耆(ほうき)の守護職が与えられただけで、残りの山名氏の旧領は、反乱鎮定に功のあった畠山・大内・一色(いっしき)・赤松諸氏に分与され、山名氏の勢力は一挙に削減された。

[新田英治]

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百科事典マイペディア 「明徳の乱」の意味・わかりやすい解説

明徳の乱【めいとくのらん】

1391年(明徳2年)山名氏清・満幸らが室町幕府に対して起こした反乱。11ヵ国の守護を兼ねた山名氏の勢力を恐れた将軍足利義満は氏清らを挑発し,氏清らが挙兵して京都を襲うと,大内・細川・畠山らの兵を集めて戦い,氏清を戦死させ,満幸を敗走させた。この結果,山名氏の勢力は削減され幕府権力は一応安定した。
→関連項目大内義弘明徳記山名氏横田荘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「明徳の乱」の解説

明徳の乱
めいとくのらん

1391年(明徳2・元中8)末,山名満幸らが幕府に対しておこした反乱。山名氏は新田氏一族で足利尊氏に従い,一時足利直冬(ただふゆ)に属したが,復帰後,中国地方,和泉・紀伊の計11カ国の守護となった。89年(康応元・元中6)惣領時義が没すると,その子時熙(ときひろ)と氏之(幸),同族の氏清・満幸との間に内紛がおこった。足利一門以外の有力守護の勢力削減をはかる将軍義満は,翌年,満幸らに時熙らを討たせ,時熙らの守護職を満幸らに与えたが,91年,義満は時熙らを許して満幸を追放。満幸は叔父氏清・義理(よしただ)と挙兵,12月末,京都内野(うちの)で幕府軍と激戦し氏清は戦死,満幸は逃亡ののち討たれた。紀伊にとどまった義理は,大内義弘に攻められて出家した。乱後,時熙ら山名氏の守護職は中国地方の3カ国のみとなり,和泉・紀伊両国は大内氏となった。義満は土岐氏に続いて山名氏の勢力削減に成功し,大内氏対策へとむかう。乱の経過などは「明徳記」に詳しい。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明徳の乱」の意味・わかりやすい解説

明徳の乱
めいとくのらん

元中8=明徳2 (1391) 年 12月に起きた山名氏清,満幸の反乱。室町幕府3代将軍足利義満は当時 11ヵ国の守護を兼ね勢力を誇っていた山名氏を押えるため,山名氏一族のうちわもめに乗じて満幸を丹波に追放したが,満幸は妻の父氏清と結び山陰の兵を率いて挙兵。氏清も和泉から京都に迫った。義満は細川・畠山・大内氏の軍勢を動員してこれに応戦,満幸は伯耆に逃れ,氏清は戦死して反乱は鎮圧された。この乱により山名氏の守護大名としての勢力は減退した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「明徳の乱」の解説

明徳の乱
めいとくのらん

1391(元中8・明徳2)年,山名氏清・満幸らが室町幕府に対しておこした反乱
山名氏は山陰および山城・紀伊・和泉に一族合わせて11カ国の守護職をもち六分一衆 (ろくぶんのいちしゆう) と呼ばれていたが,3代将軍足利義満は山名一族の分裂を巧みに利用し,氏清らを挑発した。氏清らが挙兵すると,義満は細川・畠山・大内氏らに征討させ,氏清は敗死。乱後山名氏は但馬・伯耆 (ほうき) の守護に転落し,室町幕府の将軍の権威が確立した。

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世界大百科事典(旧版)内の明徳の乱の言及

【明徳記】より

…明徳の乱(1391)の顚末を記した軍記。3巻。…

【山名氏清】より

…ところが1391年(元中8∥明徳2)になると,義満は満幸が上皇領出雲横田荘を押領したことをとがめ,その出雲守護職を没収して京都から追放し,一方で赦免を嘆願していた時熙,氏幸を許した。氏清は,満幸が将軍義満は山名氏を滅ぼす計略であると説くのをいれて幕府に背き,分国の軍勢を率いて京都に攻め込むが,直轄軍などで強化された幕府軍に討滅された(明徳の乱)。その分国のうち本国但馬は時熙,伯耆は氏幸,要港堺の位置する和泉は大内義弘に与えられた。…

※「明徳の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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