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明徳の乱 めいとくのらん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

明徳の乱
めいとくのらん

元中8=明徳2 (1391) 年 12月に起きた山名氏清,満幸の反乱。室町幕府3代将軍足利義満は当時 11ヵ国の守護を兼ね勢力を誇っていた山名氏を押えるため,山名氏一族のうちわもめに乗じて満幸を丹波に追放したが,満幸は妻の父氏清と結び山陰の兵を率いて挙兵。

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デジタル大辞泉の解説

めいとく‐の‐らん【明徳の乱】

元中8=明徳2年(1391)将軍足利義満に挑発されて、山名氏清・満幸らが室町幕府に対して起こした反乱。氏清は戦死し、満幸はのちに殺され、山名氏の勢力は一時衰えた。

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百科事典マイペディアの解説

明徳の乱【めいとくのらん】

1391年(明徳2年)山名氏清・満幸らが室町幕府に対して起こした反乱。11ヵ国の守護を兼ねた山名氏の勢力を恐れた将軍足利義満は氏清らを挑発し,氏清らが挙兵して京都を襲うと,大内・細川・畠山らの兵を集めて戦い,氏清を戦死させ,満幸を敗走させた。
→関連項目大内義弘明徳記山名氏横田荘

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世界大百科事典 第2版の解説

めいとくのらん【明徳の乱】

1391年(元中8∥明徳2)に山名氏清山名満幸らが反幕府的行動を起こし,討たれた乱。山名氏は清和源氏新田氏の一族で,足利尊氏の挙兵に応じて活躍し,山陰地方を根拠として勢力を拡大した。観応の擾乱(じようらん)後,山名時氏は直冬党の最有力者となっていたが1363年(正平18∥貞治2)幕府方に降り,丹波,丹後,因幡,伯耆,美作5ヵ国の守護職を安堵され,山名氏隆盛の基礎を築いた。足利一門斯波氏の最大の支持勢力となった山名氏は,幕府の権勢者佐々木高氏(道誉)の勢力を山陰地方から払拭していっそう強大となり,乱当時の山名氏一族の守護国は先の5ヵ国に出雲,但馬,隠岐,山城,和泉,紀伊の6ヵ国を加えて11ヵ国になり,六分の一衆と称された。

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大辞林 第三版の解説

めいとくのらん【明徳の乱】

明徳2年(1391)12月、山名氏清・満幸らの反乱軍を足利義満方が京都内野に撃破した合戦。山名氏の内紛に乗じて義満が挑発したことから起こったもので、乱後、山名氏は衰退。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

明徳の乱
めいとくのらん

1391年(元中8・明徳2)に山名氏清(やまなうじきよ)・満幸(みつゆき)らが室町幕府に対して起こした反乱。山名氏は南北朝時代、一族で11か国の守護職を保持して勢力を振るい、六分一殿(ろくぶんのいちどの)とよばれたほどであったので、将軍足利義満(あしかがよしみつ)はその強勢を警戒し、機をみてその勢力を削減したいと考えていた。1371年(建徳2・応安4)山名時氏(ときうじ)の死後、一族分裂の兆しをみた義満は、氏清(時氏の子)・満幸(氏清の弟師義(もろよし)の子)に命じて、一族の時煕(ときひろ)・氏幸(うじゆき)(ともに氏清の弟時義(ときよし)の子)が但馬(たじま)にあって幕命を奉じないのを理由に、これを追討させた。しかし、時煕らは義満に取り入って氏清らを讒言(ざんげん)し、義満がこれを用いて氏清らを抑えようとしたので、満幸は氏清を説き、氏清も兄義理(よしまさ)を誘って幕府に反旗を翻し、京都に進出した。義満はこれに対し、大内(おおうち)・畠山(はたけやま)・細川(ほそかわ)ら有力大名に追討を命じ、91年京都内野(うちの)(京都・二条城の北西、上京(かみぎょう)区と中京(なかぎょう)区にまたがる地域)の戦いで氏清らの軍を破った。この敗戦で氏清は戦死し、満幸は出雲(いずも)に逃れたが、94年(応永1)に討たれ、義理も敗走後行方不明になった。この結果、時煕に但馬、氏幸に伯耆(ほうき)の守護職が与えられただけで、残りの山名氏の旧領は、反乱鎮定に功のあった畠山・大内・一色(いっしき)・赤松諸氏に分与され、山名氏の勢力は一挙に削減された。[新田英治]

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世界大百科事典内の明徳の乱の言及

【明徳記】より

…明徳の乱(1391)の顚末を記した軍記。3巻。…

【山名氏清】より

…ところが1391年(元中8∥明徳2)になると,義満は満幸が上皇領出雲横田荘を押領したことをとがめ,その出雲守護職を没収して京都から追放し,一方で赦免を嘆願していた時熙,氏幸を許した。氏清は,満幸が将軍義満は山名氏を滅ぼす計略であると説くのをいれて幕府に背き,分国の軍勢を率いて京都に攻め込むが,直轄軍などで強化された幕府軍に討滅された(明徳の乱)。その分国のうち本国但馬は時熙,伯耆は氏幸,要港堺の位置する和泉は大内義弘に与えられた。…

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