ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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1391年(元中8・明徳2)に山名氏清(やまなうじきよ)・満幸(みつゆき)らが室町幕府に対して起こした反乱。山名氏は南北朝時代、一族で11か国の守護職を保持して勢力を振るい、六分一殿(ろくぶんのいちどの)とよばれたほどであったので、将軍足利義満(あしかがよしみつ)はその強勢を警戒し、機をみてその勢力を削減したいと考えていた。1371年(建徳2・応安4)山名時氏(ときうじ)の死後、一族分裂の兆しをみた義満は、氏清(時氏の子)・満幸(氏清の弟師義(もろよし)の子)に命じて、一族の時煕(ときひろ)・氏幸(うじゆき)(ともに氏清の弟時義(ときよし)の子)が但馬(たじま)にあって幕命を奉じないのを理由に、これを追討させた。しかし、時煕らは義満に取り入って氏清らを讒言(ざんげん)し、義満がこれを用いて氏清らを抑えようとしたので、満幸は氏清を説き、氏清も兄義理(よしまさ)を誘って幕府に反旗を翻し、京都に進出した。義満はこれに対し、大内(おおうち)・畠山(はたけやま)・細川(ほそかわ)ら有力大名に追討を命じ、91年京都内野(うちの)(京都・二条城の北西、上京(かみぎょう)区と中京(なかぎょう)区にまたがる地域)の戦いで氏清らの軍を破った。この敗戦で氏清は戦死し、満幸は出雲(いずも)に逃れたが、94年(応永1)に討たれ、義理も敗走後行方不明になった。この結果、時煕に但馬、氏幸に伯耆(ほうき)の守護職が与えられただけで、残りの山名氏の旧領は、反乱鎮定に功のあった畠山・大内・一色(いっしき)・赤松諸氏に分与され、山名氏の勢力は一挙に削減された。
[新田英治]
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…明徳の乱(1391)の顚末を記した軍記。3巻。…
…ところが1391年(元中8∥明徳2)になると,義満は満幸が上皇領出雲横田荘を押領したことをとがめ,その出雲守護職を没収して京都から追放し,一方で赦免を嘆願していた時熙,氏幸を許した。氏清は,満幸が将軍義満は山名氏を滅ぼす計略であると説くのをいれて幕府に背き,分国の軍勢を率いて京都に攻め込むが,直轄軍などで強化された幕府軍に討滅された(明徳の乱)。その分国のうち本国但馬は時熙,伯耆は氏幸,要港堺の位置する和泉は大内義弘に与えられた。…
※「明徳の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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