ポーツマス条約(読み)ぽーつますじょうやく(英語表記)Portsmouth Treaty

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポーツマス条約」の意味・わかりやすい解説

ポーツマス条約
ぽーつますじょうやく
Portsmouth Treaty

1905年(明治38)9月4日(日本時間9月5日)、アメリカ合衆国ポーツマスで調印された日露戦争講和条約。日本は日露戦争の個別戦闘には勝利したが、戦力が限界点に達していたため、日本海海戦の勝利を機にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルト講和斡旋(あっせん)を依頼した。日露両国のいずれかが圧倒的勝利を収め、満州を独占することを恐れたアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシアの希望とが一致し、小村寿太郎(じゅたろう)とウィッテを首席全権とする講和会議が8月1日から17回にわたり行われた。ロシアの強硬な態度により日本は償金獲得をあきらめ、次の内容の条約が成立した。〔1〕ロシアは、日本が韓国において軍事上、経済上に卓越した利益を有することを承認し、日本が韓国に指導、保護および監理の措置をとることを妨げない。〔2〕両国は満州から同時に撤兵し、満州を清国に還付する。〔3〕ロシアは清国の同意を得て遼東(りょうとう)半島南部の租借権、長春(ちょうしゅん)―旅順(りょじゅん)間の鉄道と沿線の炭坑を日本に譲渡する。〔4〕ロシアは日本に樺太(からふと)の北緯50度以南を割譲し、沿海州漁業権を許与する。

 日本はこの条約でロシアの満州侵略の遺産を継承し大陸進出の地歩を固めた。しかし戦勝に過大な期待を抱いた国民賠償金を伴わない条約に失望し、全国的な講和反対運動が起き、9月5日、日比谷(ひびや)公園で開かれた国民大会は内相官邸焼打ちなどの騒擾(そうじょう)となった。

藤村道生

『信夫清三郎・中山治一編『日露戦争史の研究』(1959・河出書房新社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポーツマス条約」の意味・わかりやすい解説

ポーツマス条約
ポーツマスじょうやく
Treaty of Portsmouth

日露戦争終結に際して日本,ロシア間で結ばれた講和条約。 T.ルーズベルト大統領の斡旋によって 1905年8月 10日からアメリカの軍港ポーツマスで講和会議が開かれた。全権委員は日本側が小村寿太郎と高平小五郎,ロシア側が S.ウィッテと R.R.ローゼン。樺太 (サハリン) 割譲と賠償の問題をめぐって交渉は難航し,日本側が賠償金の要求を撤回した結果,同9月5日講和が成立した。そのおもな内容は,(1) 日本が朝鮮において指導,保護,監理を行う権利を有すること,(2) 両国が満州から撤兵すること,(3) 関東州租借地と長春-旅順間の鉄道を日本に譲渡すること,(4) 北緯 50°以南の樺太を日本に割譲すること,(5) 日本海,オホーツク海,ベーリング海のロシア沿岸漁業権を日本に与えることなどであった。日本国内では賠償金と領土獲得を期待する声が強く,講和条約に不満の民衆は日比谷焼打ち事件などの行動を起した。

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