橘俊綱(読み)たちばなの としつな

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「橘俊綱」の解説

橘俊綱 たちばなの-としつな

1028-1094 平安時代中期-後期官吏,歌人
長元元年生まれ。藤原頼通の子。丹波,播磨(はりま)などの国守をへて正四位上,修理大夫(しゅりのだいぶ),近江守。永承5年(1050)の「橘俊綱家歌合」をはじめ,たびたび伏見の自邸で歌会をひらいた。「後拾遺和歌集」などの勅撰集に12首みえる。造園に通じ,「作庭記」の作者ともされる。寛治(かんじ)8年7月14日死去。67歳。通称は伏見修理大夫。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の橘俊綱の言及

【作庭記】より

…最古の写本とされる金沢市の谷村家本(2巻,重要文化財)にも表題はなく,古くは《前栽秘抄(せんざいひしよう)》と呼ばれていた。関白藤原頼通の庶子で修理大夫(修理職(しゆりしき)の長官)となり,伏見の自邸が名園で知られた橘俊綱(たちばなのとしつな)(1028‐94)が,若年より頼通の邸宅高陽院(かやのいん)をはじめ,多くの貴族の作庭を見聞し,かつ自らの体験をもとに,当時の口伝等をまとめた記録より編集したものとされている。その内容は寝殿造系庭園の形態と意匠に関して,全体の地割りから池,中島,滝,遣水(やりみず),泉,前栽(せんざい)などについて詳述しあますところがない。…

【伏見】より

…伏見山は木幡(こはた)山ともいい,この地がのちに豊臣秀吉の伏見城となり,さらに明治天皇陵となった。その南麓に延久年間(1069‐74)藤原頼通の子,橘俊綱が造営した伏見山荘は1093年(寛治7)焼失したが,高陽(かや)院,石田殿とともに三名勝とされていた。 山荘に付属した土地は藤原氏の荘園であったらしく,1160年(永暦1)後白河院庁下文(くだしぶみ)には,〈彼庄領主俊綱以下,雖多其数,数十余年〉とある。…

※「橘俊綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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