平忠常の乱(読み)たいらのただつねのらん

世界大百科事典 第2版の解説

たいらのただつねのらん【平忠常の乱】

1028‐31年(長元1‐4)房総半島で起こった地方反乱。平忠常は武蔵野開発者といわれる良文の孫で,上総介,武蔵国押領使,下総権介などを歴任,房総半島の各地に私宅をもつ巨大な私営田領主であった。乱の原因は知られていないが,1028年に安房守惟忠の焼死事件が起こり,忠常追討の官符が出された。これは在地に大きな反感を招いて上総介為政は国人にとりこめられたが,忠常は内大臣藤原教通らに使者を送って弁明に努める。

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大辞林 第三版の解説

たいらのただつねのらん【平忠常の乱】

平安中期、関東で起こった内乱。1028年、平忠常は上総・安房の国府を襲い、房総を占拠したが、31年、追捕使源頼信に戦わずして降伏した。これ以後、関東では平氏が衰退し、清和源氏が進出した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平忠常の乱
たいらのただつねのらん

平安中期の反乱事件。1028年(長元1)、下総権介(しもうさのごんのすけ)平忠常が安房守惟忠(あわのかみこれただ)を焼き殺し、上総(かずさ)国府を占拠したことに始まる。朝廷では追討使に平直方(なおかた)、上総介に維時(これとき)、安房守に正輔(まさすけ)と、貞盛(さだもり)流平氏を中心に配置して鎮圧しようとしたが成功せず、改めて源頼信(よりのぶ)を追討使に登用し、31年にようやく平定した。忠常は京都への連行途中に死去し、子孫は宥免(ゆうめん)された。3年余にわたる追討により房総三国は亡国化し、南関東一帯が荒廃したが、その復興のなかで新しい領主制が展開し、多くの武士団が生まれる。その意味でこの反乱は、10世紀の平将門(まさかど)の乱を超える関東の反乱として、律令(りつりょう)的地方行政制度の破綻(はたん)を表面化したものであり、王朝国家体制への国制転換を促した事件として評価されている。この乱はまた、乱平定者源頼信の子孫が武士の棟梁(とうりょう)として東国に君臨する契機となった事件で、忠常の子孫も前九年の合戦以降の戦闘に頼信の子孫に従って参加する。[福田豊彦]

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世界大百科事典内の平忠常の乱の言及

【源頼信】より

…摂関家に仕え藤原道長の近習としてその後援を受け武官,文官,諸国受領を歴任,兄頼光とともに〈謀の賢かりし〉人物といわれた。1028年(長元1)房総の地に平忠常の乱が起こり,当初検非違使(けびいし)平直方,中原成道が追討使として派遣されたが実があがらず,30年9月に召還され,代わって甲斐守頼信(62歳)と坂東諸国司が追討を命ぜられた。反乱長期化の中で房総地域は荒廃し,忠常側に疲弊の色が濃くなっていた事情もあって,頼信が房総に進攻すると翌31年4月忠常は出家して降伏を申し出た。…

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