平忠常の乱 (たいらのただつねのらん)
1028-31年(長元1-4)房総半島で起こった地方反乱。平忠常は武蔵野開発者といわれる良文の孫で,上総介,武蔵国押領使,下総権介などを歴任,房総半島の各地に私宅をもつ巨大な私営田領主であった。乱の原因は知られていないが,1028年に安房守惟忠の焼死事件が起こり,忠常追討の官符が出された。これは在地に大きな反感を招いて上総介為政は国人にとりこめられたが,忠常は内大臣藤原教通らに使者を送って弁明に努める。しかし使者は京都で捕らえられ,平直方が追討使として進発,その父維時が上総介としてこれを補佐した。維時は貞盛の養子であるが,乱中に貞盛流の正輔が安房守に任じられ,常陸には同系の維基がいたことをみると,忠常追討の主力に貞盛流の人物が登用されたことがわかる。しかしこの系統は忠常と父の代から仇敵の関係にあったため,事態収拾の道が閉ざされ,房総半島一帯は荒廃に帰した。1030年5月,追討使直方は官符発給を求めたが政府はこれを拒否し,忠常出家の報が伝えられると,7月に直方の召喚を決定,9月に甲斐守源頼信が追討使に任命された。忠常は乱前に頼信に名簿(みようぶ)を進めてその従者となっており,頼信は追討使拝任後,任国下向の際に,忠常の子の法師を伴っていた。この頼信が講和政策を進めたのであろう,翌31年4月,忠常は子息と郎等を随身して頼信のもとに帰降した。忠常は頼信に連行されて上洛する途中美濃で死去し,その後,子息の処遇が問題になるが優免された。
この乱によって房総三国は亡国となり,南関東の諸国も追討による被害が多く2年間租税が優免される。そしてこの荒廃の再開発の中で,開発領主として多くの武士団が成立する。忠常の乱は私営田領主の起こした反乱として平将門の乱に通ずるものが多いが,忠常の子孫が上総氏,千葉氏などの豪族として生き残り,頼信流の源氏との関係を深めていくところに,時代の進展が認められよう。
執筆者:福田 豊彦
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平忠常の乱
たいらのただつねのらん
平安中期の反乱事件。1028年(長元1)、下総権介(しもうさのごんのすけ)平忠常が安房守惟忠(あわのかみこれただ)を焼き殺し、上総(かずさ)国府を占拠したことに始まる。朝廷では追討使に平直方(なおかた)、上総介に維時(これとき)、安房守に正輔(まさすけ)と、貞盛(さだもり)流平氏を中心に配置して鎮圧しようとしたが成功せず、改めて源頼信(よりのぶ)を追討使に登用し、31年にようやく平定した。忠常は京都への連行途中に死去し、子孫は宥免(ゆうめん)された。3年余にわたる追討により房総三国は亡国化し、南関東一帯が荒廃したが、その復興のなかで新しい領主制が展開し、多くの武士団が生まれる。その意味でこの反乱は、10世紀の平将門(まさかど)の乱を超える関東の反乱として、律令(りつりょう)的地方行政制度の破綻(はたん)を表面化したものであり、王朝国家体制への国制転換を促した事件として評価されている。この乱はまた、乱平定者源頼信の子孫が武士の棟梁(とうりょう)として東国に君臨する契機となった事件で、忠常の子孫も前九年の合戦以降の戦闘に頼信の子孫に従って参加する。
[福田豊彦]
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平忠常の乱
たいらのただつねのらん
11世紀前半,前上総介平忠常が房総でおこした反乱。忠常は上総・下総両国で勢力を張り公事(くじ)を勤めず受領(ずりょう)の命に従わなかったが,1028年(長元元)安房守惟忠(これただ)を攻め殺した事件を契機に反乱へと発展した。政府は坂東諸国に追討官符を下し検非違使(けびいし)平直方(なおかた)を追討使として派遣したが,忠常の徹底抗戦の構えに事態は膠着化した。30年,政府が直方を更迭し,忠常を家人とする甲斐守源頼信を追討使に抜擢すると,31年4月,忠常は戦わずに頼信に降伏し,京都への護送途中,美濃国で病死した。乱は,当時一般的な反受領闘争を基調としながらも坂東平氏内の主導権争いという性格ももち,その平定は東国での源氏発展の足がかりとなった。
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平忠常の乱
たいらのただつねのらん
平安中期,平忠常が房総地方でおこした反乱
忠常は上総介として上総・下総に大勢力を築き,1028年安房守惟忠 (あわのかみこれただ) を攻め滅ぼし,房総3国を支配した。1031年源頼信が追討使に任命されるに及んで忠常は降伏し,乱は鎮定された。源氏の東国進出のきっかけとなった。
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世界大百科事典(旧版)内の平忠常の乱の言及
【源頼信】より
…摂関家に仕え藤原道長の近習としてその後援を受け武官,文官,諸国受領を歴任,兄頼光とともに〈謀の賢かりし〉人物といわれた。1028年(長元1)房総の地に[平忠常の乱]が起こり,当初検非違使(けびいし)平直方,中原成道が追討使として派遣されたが実があがらず,30年9月に召還され,代わって甲斐守頼信(62歳)と坂東諸国司が追討を命ぜられた。反乱長期化の中で房総地域は荒廃し,忠常側に疲弊の色が濃くなっていた事情もあって,頼信が房総に進攻すると翌31年4月忠常は出家して降伏を申し出た。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」