檜物庄(読み)ひもののしよう

日本歴史地名大系 「檜物庄」の解説

檜物庄
ひもののしよう

現在の石部いしべ町・甲西こうせい町内を北西流する野洲やす川流域一帯に比定される。史料上確認できる庄内地名は現石部町の東寺ひがしでら(年未詳一二月一八日「北条貞時書状」長寿寺文書)、西寺(天正一二年二月二三日「青木又左衛門等田地作職売券」竹内淳一氏所蔵文書)甲西町柑子袋こうじぶくろ菩提寺ぼだいじなどいずれも甲賀郡内で、ほか「津久見」という地名もみえる。康平二年(一〇五九)一二月一三日の東大寺返抄案(東南院文書)裏書に「比物庄司光明」とあり、この「比物庄」も当庄にあたるとみられる。当庄は摂関家領として、のち近衛家領に伝領された庄園として著名だが、ほかにも京都最勝光さいしようこう(跡地は現京都市東山区)が本家職(のち京都東寺に寄進)、領家職が京都聖護しようご院に保有され、また鎌倉期以降の地頭職分のほか、延暦寺塔頭料所や他寺院の所領なども認められ、複雑な領有形態を示した。なお当庄は少なくとも一四世紀半ばには上庄・下庄に分れていたが、下庄は戦国期に石部三郷と用水相論を展開した。

〔摂関家領〕

「康平記」康平五年一月一三日条の春日詣定に「檜物御荘」とみえ、二月六日の春日祭に藤氏長者が参詣する際、雑事として七日朝の屯食(強飯を握ったもの)三具を用意することが定められている。仁平元年(一一五一)の「非時」の調進や(同年三月八日「檜物庄非時送文」京都大学蔵兵範記仁平二年秋巻裏書文書)、正治二年(一二〇〇)・康平五年の先例に準じ屯食三具の調進を課されていることなども(「猪隈関白記」同年一月一〇日条)、雑事賦課を要とした摂関家と当庄との関係をよく示している。また摂関家の年中行事、天地四方拝に際しては御手水桶杓を調進しているが(「執政所抄」一月一日条)、「檜物御庄進雑器内」とあるのでほかにも木製品を貢納していたことが知られ、久安三年(一一四七)には近衛天皇の御願寺延勝えんしよう(跡地は現京都市左京区)の仏像一体の用材を負担(年月日未詳「丈六仏像造営文書」兵範記裏文書)、杣工を背景とした檜物庄の地域的な性格がうかがえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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