日本歴史地名大系 「比木神社」の解説 比木神社ひきじんじや 宮崎県:児湯郡木城町椎木村比木神社[現在地名]木城町椎木 比木東流する小丸(おまる)川右岸にある。祭神は大己貴命・三穂津姫命・素盞嗚命・櫛稲田姫命・事代主命・福智王。旧郷社。古くは比木大明神と称された。祭神の福智王は南郷(なんごう)村の神門(みかど)神社に祀られる百済の禎嘉王の長子。仁寿二年(八五二)の創建と伝える。弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)によると、高城(たかじよう)比木大明神領として比木方内に田七町五段(浮免とも)・屋敷六ヵ所、新名爪(にいなづめ)(現宮崎市)に一段・屋敷一ヵ所など合せて田八町・屋敷七ヵ所があった。「上井覚兼日記」によると、天正一三年(一五八五)一一月一六日、財部(たからべ)比喜(ひき)社の大宮司町田一公房は紫波洲崎(しわすざき)城(現宮崎市)にいた宮崎地頭上井覚兼のもとを訪れ、財部地頭鎌田政心が南林寺用材と称して神木を伐採したり、社領の民を打擲するなど、政心の非法を訴え鹿児島へ出訴しようとした。覚兼は政心に事の次第を問いただすので、政心の返事があるまで一公房に出発を延期するよう命じた。翌一七日覚兼は政心に書を送り、一九日政心は陳弁のため覚兼のもとを訪れ、事実関係はほぼ認めたものの「併似たる物之似ぬ物にて候」との返事であった。江戸時代は高鍋藩主の尊崇が厚く、藩主秋月家の氏神とされた。また正観音を本地仏とする新納(にいろ)の鎮守であった(貞享三年高鍋藩寺社帳)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by