椎木村(読み)しいぎむら

日本歴史地名大系 「椎木村」の解説

椎木村
しいぎむら

[現在地名]岬町椎木

榎沢えのきさわ村の東に位置し、長柄ながら郡に属する。伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通り、当村南端に夷隅川を渡る津(渡場)が置かれた。川近くに船元ふなもと、南西部に上宿かみじく・中宿・下宿・横宿よこじくの地名が残り、北東部に椎木古谷しいぎふるやつ(椎木堰・亀ヶ城堰)という溜池がある。長坂ながさかの椎木城跡は三郭を主要部とし、屋号に堀ノ内が残る。中世は一宮いちのみや庄のうち。現夷隅町行元ぎようがん寺所蔵胎灌頂私記の奥書に「一宮荘椎木郷長坂般若寺」とみえ、永禄八年(一五六五)四月一四日に長坂の般若はんにや寺で書写されている。村岡むらおかには一宮末社の玉前たまさき神社があり、椎木、綱田つなだ(現一宮町)両区の鎮守で、一宮の例祭(十二社祭)には椎木の玉前神社ほかの神輿が担ぎ出され、つりさき海岸(現同上)で本社の神輿と会合して祭式を行ったという(長生郷土漫録)。千葉大系図によれば上総氏一族に椎木氏・綱田氏がおり、椎木郷は椎木氏の本貫地と考えられ、玉前神社は同氏によって勧請されたとみられる。

文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千五〇六石。寛永二年(一六二五)知行宛行状で椎木村八三六石余が旗本牟礼氏に与えられた。正保国絵図では高一千五一六石。寛文四年(一六六四)には武蔵国岩槻藩領(寛文朱印留)。同一〇年検地が行われている(高地家文書)元禄郷帳では高一千四三九石余、幕末まで同高。正徳二年(一七一二)の佐貫藩領知目録に村名がみえ、享保九年(一七二四)まで同藩領であったが、享保期には一部が一宮藩領になったとみられる(石野家文書)。延享三年(一七四六)より宝暦一三年(一七六三)まで高一六三石余は佐倉藩領(渡辺家文書)


椎木村
しいのきむら

[現在地名]木城町椎木

東流する小丸おまる川を挟んで高城たかじよう村の南に位置し、南は上江うわえ(現高鍋町)。高鍋藩領で、新納にいろ七郷のうち椎木郷は当村一村からなる。「隈江家記」によると、寛永二年(一六二五)三月、美々津みみつ(現日向市)の商船に乗船した椎木村の与三次は船が風に流され、一〇月遠方の島に漂着したという。同一五年の高鍋藩人給帳に諸郷催司(庄屋)の一人として七石取の椎木の源左衛門の名がみえる。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領知目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえ、同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高一千五〇一石余。天保郷帳では高一千八二八石余。


椎木村
しいのきむら

[現在地名]相馬市椎木

阿武隈高地東麓の緩傾斜地から台地にかけて位置し、鬼石おにいし山に源を発する椎木川が流れる。南は大坪おおつぼ村・初野はつの村、北は仙台藩領のこまみね(現新地町)、西は同藩領の伊具いぐ大内おおうち(現宮城県丸森町)。浜街道が大坪村から入り、字北向きたむきから字北原きたはらを経て東の塚部つかのべ村との境を駒ヶ嶺村に向かうが、藩境は日尻ひじり(聖口とも記す)と称された。また、字だんはらから字焼切やつきりを経て大内村に向かう山道には元旗巻もとはたまき峠がある。


椎木村
しいのきむら

[現在地名]嘉穂町椎木

北東は遠賀おんが川を挟んで中益なかます村と大隈おぐま村。東側をへい川が北流して遠賀川に合流する。集落は本村下椎しもじい三〇・上椎八・向畠むかえばたけ五・迫谷さこのたに三・河原一・新家(天明六年新開地)、山口谷六(「郷村鑑帳」秋月郷土館蔵)。小早川時代の指出前之帳では椎木村の田二三町八反余(分米三六四石余)・畠六町九反余(分大豆二七石余)。慶長六年(一六〇一)大塚久兵衛の代官預地となる(関家文書)


椎木村
しいきむら

[現在地名]大和郡山市椎木しぎ

小泉こいずみ村東南方に所在。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳には平群へぐり郡に強木南しいきみなみ・強木北の荘名を記し、元永二年(一一一九)一二月一三日の藤原清末田地売券(成簀堂所蔵東大寺文書)に「強木御庄司平(花押)」の署名がある。「春日社記録」中臣祐定記の大治元年(一一二六)一二月二九日条には「神主泰時神拝、正預・椎木預・八条預・市預・庵治預各単衣一領云々」、久安四年(一一四八)の僧信慶譲状(関戸守彦氏所蔵文書)に「椎木庄一所事」とみえ、「多聞院日記」永禄一〇年(一五六七)六月一八日条には「昨夜ヨリ筒井郷椎木・小泉ノ当リ今朝迄放火了」とある。

慶長郷帳には「しい木村」とあり、村高六九二・四二石。


椎木村
しいのきむら

[現在地名]門前町椎木

新町分しんまちぶん村の東、みなみ川上流南岸の傾斜地に立地。金くその出る製鉄遺跡が多く、かなくその地名が三ヵ所残る。上杉謙信の能登侵攻の際、たち深田ふかだから逃れきて住んだ人があり、もとからの住人は上出かみでに住み本誓ほんせい寺門徒(六戸)、館からの住人は広岡の満覚ひろおかのまんがく寺門徒(四戸)、深田からの住人は下出しもでに住み栃木の徳善とちのきのとくぜん寺門徒(三戸)であったと伝える。正保郷帳では高八三石余、田方二町五反余・畑方二町九反余。


椎木村
しいのきむら

[現在地名]富山市池多いけた、射水郡小杉こすぎ椎土しいど

射水丘陵呉羽山くれはやま丘陵の間に位置する丘陵地帯で、南は北野きたの村、西は土代どだい(現小杉町)、土代新村。婦負郡に属する。村名は当地一帯に椎の木が分布していたことに由来するといわれる。通称三熊さんのくま山に源を発し、古放生津ふるほうじようづ潟へ通じていた鍛治かじ川から用水を引き、明暦四年(一六五八)から延宝年中(一六七三―八一)までに村立てされ、高一四四石余(元禄一一年「古田新田高村付改帳」前田家文書)


椎木村
しいのきむら

[現在地名]小杉町椎土しいど、富山市池多いけだ

土代どだい村の東の丘陵地帯に立地し、南は北野きたの村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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