水主村(読み)みずしむら

日本歴史地名大系 「水主村」の解説

水主村
みずしむら

[現在地名]大内町水主

与田よだ川上流域に位置し、那智なち(二六四・四メートル)本宮ほんぐう(三四六メートル)虎丸とらまる(三七三メートル)に囲まれた山間の村。北東川東かわひがし村。与田川は多岐に分れる支流の水を集めて北流するが、当村はその支流域に集落を形成し、村内一帯から弥生時代の土器・石器片が出土する。また「讃岐国名勝図会」が倭迹迹日百襲姫陵とする後期古墳がある。平安初期までには式内社水主神社が鎮祭された。同社蔵の大般若経函底書によれば、社領大水主おおみずし名は古くは奥野おくの御領といったが、建長四年(一二五二)頃には大水主庄と称していた。大水主庄についてはほかに史料がなく明らかではないが、応永一九年(一四一二)に行われた京都北野社一切経(大報恩寺蔵)書写に「大内郡大水庄住人賢真」が加わっており、賢真は虚空蔵こくぞう(与田寺)の僧であった。前掲大般若経函底書にみえる至徳三年(一三八六)経函造営の奉加帳と、文安二年(一四四五)の経巻修復の勧進奉加帳に、武吉・岩隈いわくま別所べつそう中村なかむら大古曾おおこそはら宮内みやうち北内きたうち・焼栗・西内にしうち・三谷・河原かわはら河南かわみなみの地名が記され、このうち武吉・焼栗・三谷は不明であるが、残りは現在確認される。また文安元年の神人座配定には惣官源盛政の名がみえるが、盛政は水主三郎三衛門尉と称しており、おそらく当村土豪であったと思われる。室町時代には寒川氏・安富氏・十河氏などが虎丸城に拠り興亡を繰返した。

慶長一三年(一六〇八)八月の生駒一正宛行状写(大山家文書)によると、生駒氏家臣大山善左衛門が、水石みずし山の別所・原の地で二町を加増されており、善左衛門は当村に住して阿讃国境警備と、諸国人の入込む石風呂の監察にあたっていたようである。


水主村
みずしむら

[現在地名]城陽市大字水主

現城陽市の中央西端に位置する。北は寺田てらだ村、東は枇杷庄びわのしよう村。西と南は木津きづ川に接する。綴喜郡に属する。「和名抄」記載の久世郡水主みぬし郷にあたり、栗隈大溝くりくまのおおうなで開削に尽力した水主直一族が居住した。

鎌倉時代初頭には付近の地とともに賀茂別雷かもわけいかずち神社(現京都市北区)の社領となっていたらしく、「賀茂注進雑記」は「山城国森本郷・水主郷・富野郷・奈島郷・草内郷・奈木郷」の地が「賀茂別雷社領也」として武士狼藉を停止した文治二年(一一八六)九月五日付の源頼朝下文を載せる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報