水地村(読み)みずちむら

日本歴史地名大系 「水地村」の解説

水地村
みずちむら

[現在地名]湯布院町中川なかがわ 水地、川西かわにし 鮎川あゆかわ心光寺しんこうじ

中依なかより村・下依村の南東、高尾たかお山・ほし岳・じようヶ岳に囲まれた山間部に位置し、南方に幸野こうの村がある。年未詳五月九日の大聖院宗心知行預ケ状(野上文書)によれば、宗心は野上源左衛門尉に新恩給として「飯田郷野上村之内」などとともに「由布院之内水地一貫五百分」を預けている。大内家に亡命の身である宗心(大友親綱の子)が大友親治・義長父子を追って豊後に復帰することができたらとの前提での預け置きであったとみられ、空手形であった。

文禄二年(一五九三)九月の由布院内幸野村田方検地帳(永青文庫)に「ミつち村」とみえる。慶長五年(一六〇〇)二月の速見郡・由布院知行方目録(北九州市立歴史博物館蔵)には「水地村」とあり、高一七八石余。


水地村
すいじむら

[現在地名]尾鷲市天満浦てんまうら

尾鷲湾北岸の東端にあり、天倉てんぐら(かつて天狗倉と表記)山系を背にした温暖の地。二つの小平地よりなり、東は字水地で田畑のみであるが、西の字古里ふるさとに人家が集まる。

慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「水地村」と記され、家数二五。江戸時代初期に尾鷲組に属する。寛文(一六六一―七三)の頃水地浦となった。「紀伊続風土記」に、「水地の義詳ならす、土人伝へいふ、昔尾鷲郷を開きて始めて人家を建たる本村なりと、然れとも谷狭く村居すへき地にあらす、今わつかに七軒許、郷中の諸村とは大いに異にして瓦葺の家なく漁事をもなさす、只山稼のみにて極めて寒村なり」とある。


水地村
みずちむら

[現在地名]野津町王子おうじ 水地

岩瀬いわせ村の西、ほぼ北流する王子川東岸にある。北は大内おおち村。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には水地村が岩瀬村など五ヵ村と一括された一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高一四九石余。中ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高一四九石余・出来高五九石余、田方一二六石余・畑方八三石余、柴山・小松山ありと注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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