汎アフリカ会議(読み)はんアフリカかいぎ(英語表記)Pan-African Congresses

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「汎アフリカ会議」の意味・わかりやすい解説

汎アフリカ会議
はんアフリカかいぎ
Pan-African Congresses

アフリカ系黒人指導者による一連の国際会議。 1900年を第1回に,19,21,23,27,45,74年と,合計7回の汎アフリカ会議が開催された。 1900年の会議は H.シルベスター=ウィリアムズによってロンドンで開催され,アフリカに対する西欧植民地主義の侵略に抗議して世界のアフリカ (系) 人の連帯を叫び,文明諸国に居住するすべてのアフリカ系人に完全な権利が与えられるべきことを主張。イギリスのビクトリア女王から「アフリカにおける先住民諸人種の利益と福祉を無視しない」との約束を得た。アフリカの自治や独立を意識し主張するにはいたらなかったが,汎アフリカという言葉を世に知らせ,アフリカ (系) 人国際主義の出発点となった点で大きな意義があった。その後,第1次世界大戦終結直後の 19年,W.デュ・ボイスパリで第2回会議を主催し,ドイツ領アフリカ植民地の国際管理,アフリカ人に対する国際的保護の法制度化,アフリカにおける漸進的,段階的自治の推進などを求める決議採択。この 19年会議を普通第1回汎アフリカ会議と呼ぶが,これはこの会議がアフリカ人,アフリカ系人の民族感情を強く鼓吹し,実行可能性をもったアフリカ人の自治の要求を打出したことの意義が高く評価されたからである。デュ・ボイスはさらに 21年 (ロンドン,ブリュッセル,パリ) ,23年 (ロンドン,リスボン) ,27年 (ニューヨーク) と続けて会議を主催したが,29年に始る大恐慌の結果,それまで得てきた全国有色人種向上協会 NAACPの資金的援助がとだえたこともあって,その後 18年間開かれなかった。第2次世界大戦終結直後の 45年 10月再び会議はマンチェスターで復活。この第5回会議にはデュ・ボイスも出席していたが,会議の主導権は K.エンクルマなどアフリカ民族主義者が握り,汎アフリカ主義は初めてアフリカ民族主義と合流して,以後アフリカの独立と統一を目指す運動へと発展していくことになった。しかし他方これを契機に汎アフリカ主義が過度にアフリカ人中心となったため,外部のアフリカ系人が脱落する結果を招いた。しかし,74年6月タンザニアの J.ニエレレ大統領がダルエスサラームで 29年ぶりに第6回汎アフリカ会議を主催,アフリカ人,アフリカ系人計 500人が参加して,再び本来の汎アフリカ主義に立返るきっかけがつくられたが,その後特に目立った動きはない。 (→マンチェスター会議 )  

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