江戸地回り経済 (えどじまわりけいざい)
近世中期以降に形成された江戸と近国との市場関係。その市場圏を江戸地回り経済圏という。江戸に入荷する商品は,京都・大坂方面から送られてくる下り荷と,関東を中心とする江戸近国からの地回り荷に二大別されている。江戸の問屋の中にも〈下り〉あるいは〈地回り〉を冠して,その取り扱っている商品が異なっていることを示すものもあった。江戸地回り経済は,江戸と地回り経済圏との市場関係であるが,それは下り荷の市場関係に対するものとして考えられている。下り荷は比較的高い技術を要する加工品が多かったが,近世中期以降になると,これと競合する地回り荷の江戸への流入がしだいに増加した。幕府ははじめ下り荷や,その市場の優位を認め,江戸へ入る商品の統制も大坂に依存することが多かった。近世中期以降になると江戸地回り経済圏における生産が高まり,幕府も下り荷と同種の商品の生産を奨励して地回り経済圏を育成する政策を取った。近世後期になると量または質で地回り荷が下り荷を凌駕(りようが)するものも出てくる。しかしその成長は幕府が期待するほどのものとはならなかった。江戸地回り経済の成長とともに地回り経済圏内では,小地域市場の中心となっていた市場町や宿場町が,江戸へ送る商品の集荷地になっていった。江戸の問屋はこのような町を集荷の拠点として買役を派遣し,あるいは集荷地の問屋を買宿に指定して地回り荷の集荷組織を整えた。集荷地の問屋の中には,資金の供与を受けるなどして江戸の問屋に従属するものもあった。在郷商人の中には,こうした問屋による集荷組織から離脱して,江戸への売込みを独自に行い問屋と抗争するものもあった。関東およびその近国での近世中期以降における生産・流通の発展は,このような江戸地回り経済の展開として見ることもできる。
執筆者:伊藤 好一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の江戸地回り経済の言及
【伊豆国】より
…また,59年(宝暦9)三島代官が廃され,韮山に屋敷を構える世襲代官江川氏に伊豆国天領支配はゆだねられ(韮山代官),以降,1868年(明治1)の韮山県までつづくが,支配所は1万~3万石で幕末には減少した。 近世中期の伊豆は,江戸地回り経済圏に入り,天城炭,伊豆石,海産物等を江戸市場に送った。天城炭は,天城山御林で御用材の原材の下付をうけて製炭,江戸に運搬され,江戸の消費にこたえた。…
【江戸】より
…それは江戸経済が大坂や京都に強く結びつけられていた状況から脱し,関東農村の経済発展にともなって,その中心としての位置を強めていったことである。[江戸地回り経済]圏と呼ばれるものが形成されるようになっていき,関東各地の特産品生産が増えるにしたがって江戸との結びつきが強まり,その流通部門の担当者たちはしだいに江戸に出店をもつようになった。こうした地回り経済の発展はこれまで大坂などにしか顔の向いていなかった問屋商人たちに大きな打撃を与えたのである。…
【絹市】より
…1742年(寛保2)に設立された甲州上野原の市は,商品ごとに分かれた11の座で構成されていたが,設立後間もなく,絹・紬を主要な商品とするようになった。関東西部の絹市で仕入れる商人は,はじめは京都の問屋が主であったが,[江戸地回り経済]の展開とともに江戸の問屋の活躍が目ざましく,買宿を指定するなどして買付けに当たり,絹市は江戸の問屋の織物仕入機関化していった。【伊藤 好一】。…
【文化文政時代】より
…ただ幕府は,ひざもとの江戸では,問屋仲間の連合体である[十組問屋]をより強力な独占団体である菱垣廻船(ひがきかいせん)問屋仲間に再編成することに成功して,寛政改革以来の幕府の方針である株仲間のてこ入れ政策が大きな成果を収めたが,これも長続きはしなかった。その原因の一つには,関東一帯の[江戸地回り経済]が一段と発展し,新しい流通ルートがこれまでの都市商人の集荷機構をかく乱するという事態が激化してきたことがあげられる。また,江戸地回り経済の発展は,農民の階層分化を促進して農村の荒廃を深刻化させ,無宿者や[博徒]の横行の一原因ともなった。…
※「江戸地回り経済」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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