日本歴史地名大系 「池須町」の解説 池須町いけすまち 滋賀県:彦根市彦根城下池須町[現在地名]彦根市芹橋(せりばし)二丁目・池洲町(いけすまち)・本町(ほんまち)二―三丁目土橋(どばし)町の西方にあり、内(うち)町とは本町口の橋で通じる。池洲町とも。周辺は足軽町が続く。日夏(ひなつ)より当町に至るまでを巡礼街道(じゆんれいかいどう)(順礼街道)と称していたが、付近にはのちに町並が形成されていたと思われる。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、軒数一七のうち借家一三、男一八・女二六(ほか下人二)、諸職諸商は七種一三軒で、研屋・茶碗屋・菓子屋など、町代は紙屋、横目は米屋が勤めている。安永七年(一七七八)の万留書(彦根市史)では年貢地七軒。 池須町いけすちよう 京都市:中京区本能学区池須町中京区西洞院通六角下ル南北に通る西洞院(にしのとういん)通(旧西洞院大路)を挟む両側町。北側を六角(ろつかく)通(旧六角小路)、南側を蛸薬師(たこやくし)通(旧四条坊門小路)が通る。平安京の条坊では、町の東側は左京四条三坊一保二町西、西側は西洞院通上及び左京四条二坊四保一五町の東。平安中期以降は六角西洞院大路の南にあたる。応永三二年(一四二五)一一月一〇日付酒屋交名(北野天満宮史料)には、「越後 六角西洞院南西頬 長円」の名がみえる。町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「いけすノ町」、寛文末洛中洛外大図に「池須屋町」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「生須町」とみえる。町名由来は、延宝六年(一六七八)刊「京町鑑」に「此町往古後鳥羽院の御所の旧地也。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by