沖之島村(読み)おきのしまむら

日本歴史地名大系 「沖之島村」の解説

沖之島村
おきのしまむら

[現在地名]近江八幡市沖島町おきしまちよう

琵琶湖の中央部、東岸寄りにある沖島に位置する。沖島は周囲約一二キロ、面積約一・五平方キロで琵琶湖最大の島。島の住人先祖近江源氏の残党源満仲の家臣南源五郎以下七人の開拓によると伝えるが、近辺の湖底から大正年間(一九一二―二六)縄文土器土師器・和同開珎・万年通宝・神功開宝などが採集されており、古くから往来があったと推定される。寛正四年(一四六三)九月二七日付の大島神社鳥居奉加日記(大島・奥津島神社文書)に「五百文をきの島」とみえる。長命寺結解米下用帳(長命寺文書)の天文三年(一五三四)から同一一年までの記録によれば、「破木二千束」「矢楯材」「材木二百七十本」「馬」「兵粮米」「塩」などの輸送に当島の廻船船頭・人夫が従事しており、琵琶湖対岸の高島たかしま(現高島郡高島町)小松こまつ(現滋賀郡志賀町)堅田を結ぶ琵琶湖湖上の交通拠点としての機能をもっていた。


沖之島村
おきのしまむら

[現在地名]七宝町おきしま

南は大切戸おおきりど悪水路を経て遠島とおしま村に、北は東西に走るかみ街道に接する。養老元年(七一七)の古図(猿投神社蔵)に当村の名が津島つしま(現津島市)枇杷島びわじま(現名古屋市)とともに記されている。古い地域のために条里制の遺構がみられる。

「寛文覚書」に戸数五五、人数三一〇とある。「徇行記」によれば、田は八二町四反八畝余、畑は五町九反一畝余。概高一千四〇九石余のうち一千二七八石余が藩士七人の給知で、「佃力不足ナルニヨリ木折村ヘ田畝掟アリ、小百姓ハカリニテ貧村ナリ、十年目毎ニ地割ヲスル所ナリ(中略)水潦一般ニ泛浸シテ稲粱敗傷スル事アリ、村東ニテ二ツ寺渠ト東源寺川ト落合ヘリ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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