島村(読み)しまむら

精選版 日本国語大辞典 「島村」の意味・読み・例文・類語

しまむら【島村】

  1. 姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「島村」の解説

島村
しまむら

[現在地名]香焼町 馬手まてうら長浜ながはま深浦ふかうらうら浦上うらうえ海老瀬えびせ丹馬たんま安保あぼ恵里えりくりうらたつくちなど

現香焼町域を村域とする。海面埋立以前は香焼島・かげ島から構成され、香焼島では彦四郎鼻・玄牛くろうし鼻・栗ノ浦鼻・竹崎たけざき鼻・しら瀬・うめ鼻などが突き出して栗ノ浦・馬手ヶ浦などの入江が形成されていた。中世は香焼島・影呂宇かげろう(蔭ノ尾島)などとみえ、江戸時代は香焼村ともいうが、史料上は島村とする例が多い。天正一五年(一五八七)深堀純賢は豊臣秀吉により本領を安堵され、のち一時所領を没収されたというので、当地は長崎代官鍋島直茂の管轄下に置かれたものであろう。のち旧領を回復、深堀郷に属したとされる。寺の下てらのしたに唐人町が形成されていたとされ、とうふねは停泊地の跡と伝える。

江戸時代は肥前佐賀藩家老の深堀鍋島家領であった。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳では「香焼島」が長崎湊とかば(現野母崎町)の間の船路としてみえる。正保国絵図に香焼島とみえ、また「島村」として高一一一石余とある。寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)にも島村とある。元禄国絵図では香焼島に島村と記し、高九一石余。玄梁院代配分村付帳に鍋島左馬助(純賢)領として香焼村とあり、地米高六六石余(大小配分石高帳でも同様)。元禄一三年(一七〇〇)の深堀之内島村畠方帳(香焼町役場蔵)では畠一三町余で、麦四二石余、たんま・松ノ下・岩いたび・ふけの田地分として田麦二斗余、麻畠三反余、名請人約六〇人。宝暦二年(一七五二)の佐賀領郷村帳では島村とあり、香焼ともいうと記される。天明七年(一七八七)の佐賀領村々目録では高九一石余。享和三年(一八〇三)の郡村仮名付帳に人家有島として深堀郷島村之内香焼島とあり、カウヤギの訓を付し、また遠見番所が置かれていた。安政二年(一八五五)当時の畠四四町余で麦七三石余、田八町余で地米四六石余(「田畑名寄帳」香焼町役場蔵)


島村
しまむら

[現在地名]境町島村

小此木おこのぎ村の南に位置し、南は武蔵国榛沢はんざわ横瀬よこぜ(現埼玉県深谷市)、同郡宮戸みやど(現同県本庄市)。現在、利根川が中央部を西より東へ貫流し、南北に二分されている。「島村郷土誌」の利根川流路変遷図によると、近世から大正三年(一九一四)の河川改修まで、村内を流れる利根川の偏流蛇行ははなはだしい。洪水に度々襲われ、その度ごとに水脈が変わっていたことが知れる。現利根川の中央部に字前島まえじままたは本野ほんのと称する集落があり、当村の中心部であった。度重なる洪水・川欠けによりしだいに居住者が利根川の南・北岸に移転。北岸に北向きたむかい西島にしじま、南岸に新地しんち新野しんの新田しんでん立作りゆうさくなどの集落がある。大正三年の河川改修により字前島は河床となった。利根川の往来は竿漕ぎ渡船による。渡船の創始時期は近世からといわれるが不詳。この渡船は現在も続けられ北向と新野を結び、県道扱いとなっている。無料。

天正二年(一五七四)北条氏繁は当地に長期在陣していた(同年閏一一月五日「北条氏繁書状」鶴岡八幡宮文書)


島村
しまむら

[現在地名]平村大島おおしま

庄川を挟んで下梨しもなし村の対岸(右岸)に位置し、河岸から集落背後の標高一〇〇〇メートル強の山頂までが村の領域。下梨村との間に籠渡しがあり、籠綱の総間数五六間、うち籠の動く区間は二七間。藤切人足は九六人ほどで、うち四〇人ほどは島村、二六人ほどは籠渡かごど村、三〇人ほどは下出しもで村。籠綱を製作する人足は一一〇人ほどで、うち七〇人ほどは島村、四〇人ほどは籠渡村。籠綱引渡人足は一五人ほどで、島村・下梨村・中畑なかばたけ村・見座みざ村・相倉あいのくら村・来栖くるす村・小来栖こぐるす村・田代たしろ村・松尾まつお村の九ヵ村から出した(五ヶ山籠渡覚「十村宅左衛門覚書」寿川区有文書)

嶋八郎左衛門尉は美濃国池田いけだ郷から落ちてきた者といい、天文二一年(一五五二)一〇月二七日の五箇山衆連署申定(生田家文書)の「下梨」に嶋八郎衛門尉がみえる。


島村
たこじまむら

[現在地名]珠洲市蛸島町

川尻かわしり村の東に位置し、磯近くに弁天べんてん島がある。地名は沖に蛸の多い島があったからとも、沖の大蛸が山の神と戦って敗れ、島と化したからともいう(能登志徴)。東の雲津もづ村境に泰澄の所伝をもつ塚があったというはちヶ崎があり、寛政期(一七八九―一八〇一)に雲津村の者が植林して以来の黒松林がみられる。文明一〇年(一四七八)八月二八日の高座宮神主友永置文(須須神社文書)によれば、正院しよういん郷内の毛須もず(雲津)蟹浦かにうらなどを支配している五井兵庫頭は隣接する方上かたかみ保に侵入を企てたが、保内の高座たかくら宮の抵抗により「蛸島幾野番頭」の家で生害している。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)に「多こ嶋」とあり、長氏の知行地であった。天正一〇年(一五八二)九月に鳳至ふげし郡の粟蔵彦丞は越後上杉景勝の兵船着岸を蛸島浦で見届け、前田利家に注進している(貞享二年「加能越里正由緒記」金沢大学蔵)。当地の川端家は前田利家から二五俵を与えられていた初期扶持百姓であった(安政四年「由緒記」加越能文庫)


島村
しまむら

[現在地名]白峰村桑島くわじま

牛首うしくび村の北、大嵐おおあらし(一二〇四メートル)の西麓に位置する。集落は北流する手取川両岸の河岸段丘上にあり、東島ひがしじま西島にしじまと称した。天正八年(一五八〇)二月二一日の柴田勝安書状(山口文書)は「嶋村惣中」に宛てられている。なお永正六年(一五〇九)閏八月五日に本願寺実如が「能美郡山内庄桑嶋」の正西に阿弥陀如来絵像を下付しているが、これを記した同像裏書写(同文書)がある。

越前国正保郷帳では田高七石余・畑高一一石余。元禄一一年(一六九八)の十八ヶ村高小物成帳(斎藤文書)では免七ツ九歩八厘、家数一二四、小物成は夫銀二二〇匁・夫綿銀一二二匁余・夫糸代三三匁余。文久三年(一八六三)の白山麓十八ヶ村由緒控(金沢市立図書館蔵)による高一九石余、田三町・畑二町。同年の村高等書上控(山岸文書)では家数一九八・人数八一六。


島村
しまむら

[現在地名]平田市灘分町なだぶんちよう・島村町・出島町でじまちよう

平田村灘分の南、出雲平野北東端に位置する平地の村で、村域は東西三〇町余・南北五町余。斐伊川下流の河道変遷と開発によって近世の村況変貌が著しい。南は出雲郡坂田さかだ(現斐川町)、東は宍道湖に面し「運送の便利湖水付にて宜敷」村であった(明治六年「地理取調書」県立図書館蔵)。天保一一年(一八四〇)に村中央を貫いて宍道湖に注ぐ砂下定すなさげじよう(幅三〇間)が掘削された。同川は湖岸沖積地の増大を図るものであったが、三ヵ所に簀子橋(幅一尺五寸)が架けられ、南北に往還が通じていた(前掲地理取調書)楯縫たてぬい郡に属し、元禄八年(一六九五)の検地帳では本田五三町七反余・分米四四七石余、石新田六五町三反余・分米五〇石余、反新田一三町七石余。元禄十年出雲国郷帳では高八〇〇石余、「雲陽大数録」では高六一〇石とみえる。


島村
しまむら

[現在地名]多古町島

水戸みと村の東に位置し、栗山くりやま川と支流多古橋たこばし川に挟まれた水田地帯に島状に形成された丘陵上に集落がある。中世は千田ちだ庄に属したと考えられる。康正二年(一四五六)四月四日の足利成氏書状写(武家事紀)によると、享徳四年(一四五五)八月、千葉介胤直が籠城した志摩しまが陥落している。「鎌倉大草紙」によれば、康正元年三月重臣原胤房に千葉城を追われた千葉介胤直父子および舎弟賢胤らは千田庄の多胡たこ・志摩両城に籠城したが、八月に原氏および馬加康胤により落城、一族のおもな者は自害したという。これに関連して「本土寺過去帳」の一二日の項には「享徳四乙亥八月其外多古・嶋城ニテ打死諸人成仏得道」「(享)徳四□□(八月) □□(狩野)日向朗典 □□□□(於嶋打死)」との記事が記載されている。


島村
しまむら

[現在地名]大栄町島

瀬戸せと村の南、由良ゆら川中流の低湿地に位置する。古く北方に形成されていた内湾の名残として、江戸時代には地内に潟湖の「嶋ノ池」があり(伯耆民談記)船付ふなつきの地名が残る。戦国期、北条ほうじよう郷の山田氏と同族関係にあったと思われる長田氏が当地一帯を支配したという(山田文書)。天正八年(一五八〇)一〇月二二日付の真木島昭光奉書(吉川家文書)によれば「由良之要害」が吉川方によって攻め落されている。「大栄町誌」所収の大誠村古地図に「要害」の地名がみえ、現在も要害ようがいの字名が残っている。

藩政期の拝領高は三八二石余。藪役銀一〇匁を課されており(藩史)、青木氏の給地があった(給人所付帳)


島村
しまむら

[現在地名]鶴岡市千石町せんごくまち文園町ふみぞのまち三和町みわまち神明町しんめいちよう三光町さんこうちよう睦町むつみまち長者町ちようじやまち

鶴ヶ岡城下町の南端に接する一帯にあり、南は海老島えびしま村。六十里越街道が南に貫通する。島田しまだ村ともいった(元禄郷帳)。地名は、最上氏の旧臣城生志摩守が当地に住し田畑を開墾して成立した村が、のちに島村と改称したとする説(筆濃余理)と、あか川乱流期にできる島に由来するという説がある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高六二二石余。


島村
しまむら

[現在地名]寒河江市島

楯南たてみなみ村の南に位置し、高瀬たかせ山丘陵から南の最上川に至る地域を占める。本村島村と枝郷高瀬・皿沼さらぬまからなる。北上してきた六十里越街道は皿沼で最上川を渡河、さらに北上して楯南村に向かう。高瀬山周辺一帯は中世には高瀬郷とよばれ、長享三年(一四八九)一〇月吉日、大江沙弥宗経は「さかへの庄(うカ)るし(かカ)いかう之内もりのミや、しつあミたたうてん」とともに「たかせのかうのうちに地蔵てん」を梅本坊に売却している(「大江宗経売券写」梅本坊文書)。明応八年(一四九九)五月三日、大江知広夫人は知広の追善供養料として、澄江ちようこう院に「たかせニせんかり」などを寄進した(「せんゑいきた寄進状」澄江寺文書)


島村
しまむら

[現在地名]北条町島

北尾きたお村の南に位置し、東を北条川が北流する。低地に立地しており、かつて一帯は「島の池」とよばれる潟湖であったとされる(北条町誌)。古くは山田やまだ村と称したらしく、「伯耆民談記」に「当所今は嶋村と称すれ共、本名山田にて、昔時は山田村と号しける」とあり、前田家譜(八幡宮文書)には「当国北条郷山田村堤城」とみえる。山城石清水いわしみず八幡宮領山田別宮にちなむものといい、しろうちには土豪山田氏の居城つつみ城があったという。

拝領高は五五九石余、本免は五ツ。藪役銀一三匁を課されており(藩史)、石河氏・高坂氏・浅田氏・佐分利氏・宮崎氏の給地があった(給人所付帳)。慶安二年(一六四九)の島村年貢免状(日置家文書)によれば高六〇九石余、うち畑高四〇石余。


島村
しまむら

[現在地名]美山町大字島

宮島みやじま一一ヵ村の一。由良川の右岸、支流棚野たなの川との合流点に位置する山間集落。北は市場いちば村、東南は下吉田しもよしだ村、西北は和泉いずみ村。台地にある島遺跡から土製勾玉・小玉・管玉などが出土している。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、中世は野々村ののむら庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高一四九・二八九石。旧高旧領取調帳では一八五・七二三石。生業は農業を主とし、製茶・炭焼・川漁・山猟なども営んだ。

当村は宮脇みやわきにある道相どうそ神社ならびに市場の菅原すがわら神社の氏子。寺院には臨済宗南禅寺派竜潭山岩栖がんす寺があり、応永二年(一三九五)細川満元の開基、開山は希世と伝える。


島村
ひえじまむら

[現在地名]門真市

ふる川右岸沿いの平坦地で、対岸は三ッ島みつしま村としも(現鶴見区)、西は南流する悪水落井路を隔てて焼野やけの(現同上)。集落は古川寄りの北端にある。地名は「河内国小松寺縁起」に載せる久安元年(一一四五)の近衛天皇綸旨にみえる(ただしこの文書は検討を要する)。稗島とも記す。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高一六二石余、小物成として葭年貢米五石・蓮年貢米三石一斗。江戸時代を通じ幕府領であったとみられる。年次不詳の村明細帳(木村家文書)によると、高一六五石のうち田高一四二石・反別一〇町三反余、畑高八石余・七反余、屋鋪高一二石余・一町余。


島村
しまむら

[現在地名]御坊市島

御坊村の北東に隣接し、東は日高川。「続風土記」に「旧日高川の中洲なりし地なれは島の名あり」と記す。興国四年(一三四三)の一向専修念仏名帳(西教寺蔵)のなかに、「シマノエモン二郎」など島村の五人の名がみえる。慶長検地高目録によると村高四四三石余、小物成六升一合。「日高鑑」に高六八五石余、町数五九町九反余、家数一〇六で内訳は本役三〇・半役四七・無役一五・庄屋一・年寄二・ありき一・大工四ほか、人数四八四、牛五一、馬一四、二夫米一三石余、役米八石余とある。


島村
しまむら

[現在地名]小矢部市島・下島しもじま

茄子島なすじま村の南、小矢部川右岸の平地に立地。北は小神おこ村。元和五年(一六一九)の家高新帳に「しま」とみえ、役家数七、二郎島孫次組に属する。正保郷帳では高四六四石余、田方三〇町六反余・畑方三反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四九二石・免四ツ二歩、小物成は鮭役二三匁、鮎川役六匁(うち三匁出来)・猟船櫂役一〇匁(うち五匁出来)であった(三箇国高物成帳)


島村
しまむら

[現在地名]羽島市小熊町島おぐまちようしま小熊町島新道おぐまちようしましんどう小熊町島前おぐまちようしままえ小熊町足近新田おぐまちようあぢかしんでん新生町しんせいちよう

川口かわぐち村の東、ぎやく川北岸に位置し、「濃州徇行記」に「堤下に南北へ長く川口村の界目に村民軒を連ぬ、(中略)農業を専渡世とす」とある。足近輪中内の村。年未詳六月八日の下間頼龍奉本願寺御印書(円覚寺文書)に地名がみえる。慶長郷帳に村名がみえ、高三三〇石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では稲葉正成(十七条藩)領。


島村
ひえじまむら

[現在地名]西淀川区姫島ひめしま一―六丁目・姫里ひめさと一―三丁目・福町ふくまち一―三丁目、此花このはな高見たかみ一―三丁目など

野里のざと村の南にあり、東村境を中津川、西村境を中島なかじま大水道で画される。「島」とも記した。記紀や歌枕などで知られる姫島(媛島)を当地にあてる説もある(大阪府全志)。寛正二年(一四六一)一二月二六日付中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)の野里庄内高徳庵分のうちに「字ヒエ島」、野里村内浄心分のうちに「字ヒエ島朔」とみえる。


島村
ひのしまむら

[現在地名]龍ヶ岳町樋島

高戸たかど村東方の八代海に浮ぶ島嶼群からなる村。慶長国絵図に「ひのしま」とみえ、行政上は「上砥岐村」のうちであった。葦北あしきた田浦たのうら(現田浦町)まで海上三里。天草・島原の乱後、砥岐組に属し、庄屋藤田家は砥岐組大庄屋を兼帯。正保郷帳に村名がみえ、高一一五石八斗余とある。万治二年(一六五九)石高半減により七二石一斗余となった(天草風土考)


島村
しまむら

[現在地名]茨木市島一―四丁目・宮島みやじま一―三丁目・横江よこえ一―二丁目・高浜たかはま町・新和しんわ町・小柳こやなぎ町・野々宮ののみや一丁目、摂津市鶴野つるの三―四丁目

野々宮村の西にある低湿地の村で、南を安威あい川が流れる。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に村名がみえ、高一千五四五石余。元和初年の摂津一国高御改帳によると、島村は高槻藩内藤信正領一千六五石余と旗本渡辺勝領四七九石余からなる。渡辺領は高に大きな変化もなく幕末まで続いたが、内藤信正領分はその後京都所司代板倉重宗領となり、明暦二年(一六五六)から幕府領。明和六年(一七六九)幕府領一千二八三石余のうち四二一石余は旗本青木直美に与えられた。


島村
しまむら

[現在地名]耶馬渓町大島おおしま

金吉かなよし川が山国やまくに川へ合流して三角洲を形成し、川中島をなす。東は大久保おおくぼ村、南は金吉村。慶長一三年(一六〇八)から元和六年(一六二〇)までに、玖珠くす郡への走百姓二一人がいた(「走百姓調査」松井家文書)。小倉藩元和人畜改帳では高二九九石余、家数四一(うち百姓一九・名子四・牢人二)・人数一〇〇、牛九・馬三とある。元禄豊前国高帳では高三七二石余。


島村
しまむら

[現在地名]かつらぎ町島

紀ノ川中流域左岸の沖積平地上にある。南は渋田しぶた村。元暦元年(一一八四)かせだ庄が立券された際に作られたという田庄絵図(神護寺蔵)には、島村の南に同庄南示が描かれており、当時田庄に属していたと考えられる。応永一五年(一四〇八)一〇月二七日付の志富田庄在家支配帳(又続宝簡集)には「島在家少々雖有之、田領とて先閣了」と記すが、嘉吉元年(一四四一)八月五日の三所十聴衆評定事書案(同集)などには「志富田島」とみえる。しかし島が当村全体のことか紀ノ川中洲の船岡ふなおか山をさすか明らかでない。


島村
しまむら

[現在地名]小松市島町

木場きば潟南西湖岸にあり、北西は符津ふつ村、南は江沼えぬま下粟津しもあわづ村、西は同郡矢田やた村。洪水のときには島のように残る島集落。正保郷帳では高四九四石余、田方一九町二反余・畑方九町八反余、新田高四五石余。初め加賀藩領、万治三年(一六六〇)より大聖寺藩領。当地に十村がおり、周辺の村々を支配した。「江沼志稿」では高五五五石余、小物成として地子銀二八九匁のほか野役・鍬米がある。家数四四・人数一一六、馬五。文久四年(一八六四)の村御印(小松市史)では高五三七石余、免四ツ七分、春秋夫銀三五三匁、小物成として地子銀二八九匁余・野役六匁・郡打銀六四匁余・油搾役四匁がある。

文化二年(一八〇五)加賀藩領符津村との間で木場潟沿いの土地につき紛争があり、今江いまえ村の十村と日末ひずえ村の十村が仲裁に入り、天保六年(一八三五)境界を決めた。


島村
しまむら

[現在地名]河東町福島ふくしま

北を日橋につぱし川が西流し、南東は方便たばかり村、南は岡谷地おかやじ新田村。西に端村明戸あくど、南西に端村西屋敷にしやしき、南に端村大曲おおまがりがある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に嶋とあり、高九七八石余。代田組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高一千一〇三石余。化政期の家数は本村四二・明戸二・西屋敷一二・大曲三(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)には西屋敷分を分離独立させ、家数四六(社一・寺一)・人数二八二(人員録)。同八年西屋敷分と合併して福島村となる。


島村
しまむら

[現在地名]猪名川町島

清水しみず村の北東に位置し、猪名川とその支流柏原かしはら川の合流域にあたる。慶長国絵図に「島村」とみえ、高一八七石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では六瀬むつせ一〇ヵ村のうちとして「島村」とある。領主の変遷は柏梨田かしうだ村と同様と考えられる。明和七年(一七七〇)の村明細帳(島自治会文書)によると高一九一石余・田畑一五町八反余、延宝七年(一六七九)の検地のあと天和三年(一六八三)・元禄元年(一六八八)に新田改があった。家数三一・人数一二〇、牛九。杉生景福すぎおけいふく寺末の誓覚せいがく院・六泉ろくせん寺があった。猪名川および谷川筋の堤一六ヵ所、猪名川通りの用水井堰五ヵ所・溜池六ヵ所は領主が修理入用を負担、用水井堰七ヵ所は百姓の自普請。


島村
しまむら

[現在地名]安芸市島

古井こい村の北東、東は綾木森あやぎがもり(一一四〇・五メートル)を境に馬路うまじ(現安芸郡馬路村)、北は別役べつちやく村。集落は伊尾木いおき川沿いの本村のほか、支流横荒よこあれ川流域に小谷こだに茗荷みようががある。延慶元年(一三〇八)二月の城普請定書(安芸文書)に領主安芸親氏が安芸川・伊尾木川流域の村々から百姓の出役を求めたなかに「東川之分」として「嶋山名」がみえ、伊尾木川に沿う七名のなかの一つであった。長宗我部地検帳では天正一七年(一五八九)の東山八名地検帳に含まれ、貼紙に「島名之算用」として本田一町五反四四代四歩、切畑四町五反三一代二歩と記される。

元禄郷帳によると本田高一五・八九三石。新田は元禄地払帳で一四・七二七石、幕末でも二二・七二七石(明治三年郷村高帳)で、大きな変化はない。


島村
しまむら

[現在地名]吉井町生葉いくは

巨瀬こせ川中流右岸から美津留みつる川にかけての微高地に位置し、清宗きよむね村・稲崎いなざき村・金本かねもと村に隣接する。村はずれの日田街道(中道往還)に一里塚があった(元禄国絵図)。慶長四年(一五九九)三月三日の小早川秀秋宛行状(黄薇古簡集)に「生葉郡嶋村」がみえ、当村の五四石余が龍野孫兵衛に与えられている。本高は五六石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一四〇石・役高二六〇石。寛政元年(一七八九)の撫斗代七斗六升、人数九七、馬一二(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高二六一石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田七町八反余・開田三反余・畑田五町九反余・畑一町二反余・居屋敷二反余。


島村
しまむら

[現在地名]揖斐川町島

揖斐川左岸、清水きよみず村の南西にある。同川とかす川が合流して南流しはじめる位置にあり、水害を受けやすかった。南東に福島ふくしま村、揖斐川に沿って南に島部しまべ(現大野町)があり、当地は「和名抄」記載の大野郡志麻しま郷の遺称地とされている。慶長郷帳に村名がみえ、高一五七石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領。正保郷帳では幕府領で、田一二石余・畑一四五石余。元禄郷帳でも幕府領。天保九年(一八三八)の村明細帳によれば反別田四町四反余・畑五町一反余、家数八〇のうち高持三三・水呑四六・寺一、人数三三九、揖斐川に船着場があり、渡船三艘を有した。


島村
しまむら

[現在地名]小野市大島町おおしまちよう ひがし

北島きたしま村の南、加古川左岸に位置する。万勝寺まんしようじ川が加古川に合流する地点より少し東の万勝寺川両岸低地の氾濫原に集落が形成されている。北の河岸段丘上に小野藩陣屋、東に焼山やけやま台地を仰望することができる。南の明石・加古川・三木方面から小野町に入る街道が村中を通過している。住吉神社が当村の東、宮脇みやわき村との境に鎮座し、街道から東へ参道がついている。慶長国絵図では加古川左岸の北島村と太郎太夫たろうだゆう村の間にみえる中島村が当村か。領主の変遷は門前もんぜん村に同じ。正保郷帳では田方二三〇石余・畑方六八石余。


島村
ばらじまむら

[現在地名]杉戸町茨島・高野台東たかのだいひがし高野台南たかのだいみなみ高野台西たかのだいにし

下高野しもたかの村の北東に位置し、村の中央部を日光道中が通る。寛永期(一六二四―四四)に日光道中幸手さつて宿の新井平左衛門が開墾したと伝える(風土記稿)。田園簿に茨島新田とあり、田高三〇三石余・畑高七四石余で、幕府領。天保元年(一八三〇)当時は旗本大久保領(「羽生領免除願」県立文書館蔵)。「風土記稿」によると家数五一で、当時は旗本大久保領。小名として将監しようげん上新田かみしんでんなどを記す。日光道中杉戸宿から幸手宿までの間に一里塚が置かれ(現在は跡地の標示柱のみ)、小名将監には立場が設けられており、いずれも分間延絵図に描かれる。


島村
しまむら

[現在地名]いわき市小名浜島おなはましま

藤原ふじわら川右岸の低湿地帯にあり、対岸は住吉すみよし村、南は本谷ほんや村、西は馬玉まだま村・いわおか村。応永九年(一四〇二)三月二〇日の足利満貞書下(伊勢結城文書)によれば「岩崎郡内島村・林原村等事」が結城参河七郎(満朝)に宛行われている。磐前いわさき郡に属した。近世の支配は磐城平藩領から寛文一〇年(一六七〇)以降湯長谷藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では菊多きくた郡のうちに「しま村」とみえ、高四三七石余。


島村
しまむら

[現在地名]真岡市島

五行ごぎよう川左岸に位置し、東は沖杉おきすぎ新田・小林こばやし村。平坦な水田地帯で、五行川に接する部分では毎年のように川除普請が行われた。享保八年(一七二三)鬼怒川の五十里洪水では、本流より約一〇キロも離れ、しかも五行川を越えた当地まで土砂が押流されてきて被害を受けた。慶長六年(一六〇一)真岡藩領、寛永九年(一六三二)相模小田原藩領、同一一年旗本稲葉知行、寛文五年(一六六五)小田原藩領。同一〇年の村々明細帳(渡辺善兵衛文書)によれば田高三一四石余・三一町余、畑高三五五石余・七一町二反余、年貢米一一八石余・永三八貫一九六文余、家数七六・人数四〇五、寺二、で円林えんりん寺の朱印高一五石・寄付高一六石一斗余、長蓮寺の寄付高二石四斗余。


島村
しまむら

[現在地名]岡崎市島坂しまさか

かつて妙覚みようかく池の池辺の島ともいわれ、一説に佐々木ささき村にしまという地名があり独立したと伝える。慶長一〇年(一六〇五)徳川家康の矢作川改修により池は新田となった。北は小望こもう村、東は上佐々木かみささき村・下佐々木村、西は坂戸さかと村、南は河野かわの(現安城市)に接する。

近世を通じて岡崎藩領で川西手永に属する。寛永郷帳の村高一七三石余。享和二年書上には、人別一六〇人、うち男七四・女八六。


島村
しまむら

[現在地名]大宮市島町・島

堀崎ほりさき村の北、大和田片柳おおわだかたやなぎ支台の北東部に位置し、北から低地が入込む。この低地は深作ふかさく村・まるさき村を経て綾瀬川の低地に達する。川越城下への道が東西に通る。南部なんぶ領に属した(風土記稿)。江戸時代を通じて幕府領であったと考えられる(田園簿、寛政八年「足立郡村々高辻帳」都築家文書、改革組合取調書など)。田園簿では高一七五石余、反別田二町余・畑一〇町九反余。寛文七年(一六六七)の年貢割付状(山崎家文書)によると同高で、反別もほとんど変わらず、取米四石余・取永六貫七三四文。天和二年(一六八二)の年貢割付状(同文書)では高二四六石余、取米一三石余・取永七貫五〇八文。


島村
しまむら

[現在地名]小野市粟生町あおちよう

万願寺まんがんじ川が加古川に合流する付近、南の粟生村大畑おばたけと北の同村下条しもじようの中間に位置し、両河川の寄洲の低地に集落を形成している。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は天明八年(一七八八)幕府領となるまでは粟生村と同じで、以後同領のまま幕末に至る(「河合家由緒書」河合家文書)。正保郷帳では田方一四六石余・畑方四三石余。天保郷帳では高二五一石余。灌漑用水は加古川筋新部しんべ村下手に設けられた粟生村・分郷島村・八兵衛請所立会井堰がすべてを賄った(明治二年「粟生村明細帳」河合家文書)。寛延四年(一七五一)同井堰用水の三分を旧来どおり八兵衛請所に通水しなかったため、同請所は当村と粟生村を相手取って争論を起こしている(「口上書」同文書)


島村
しまむら

[現在地名]粉河町島

深田ふけだ村の南、紀ノ川の北岸に位置し、村内を東から西へ藤崎井ふじさきい用水が流れる。東は松井まつい村、南は紀ノ川を挟んで新在家しんざいけ村、西は上田井こうだい村に接する。「続風土記」は「村名の義は此村紀ノ川端にあれは村の形を以て島と名つくなるへし」と記す。中世は井上いのうえ本庄に含まれた地で、明徳四年(一三九三)作製と考えられる井上庄絵図(随心院蔵)には「吉野河」(紀ノ川)北側に「嶋村在家」との書入れが二ヵ所あり、それぞれ数宇の在家が描かれる。また村域内と思われる井上本庄の東、粉河寺領境の南端近くに「風森」の記入もある。


島村
しまむら

[現在地名]大門町島

上条じようじよう村の北東に位置し、村の中央を南北に通る道は北は大門新町、南は中田なかだ(現高岡市)に通じる。地名は村の地形が高く、周囲の村々から島のように見えたことに由来するという。中世に浅井あさいとよばれた地域に含まれ、南北朝期に桃井尚儀の浅井城があった。慶長八年(一六〇三)二月七日前田利長が改田小左衛門らに宛てた知行所付(「神尾氏等判物写」加越能文庫)に「弐拾八石弐斗五升中郡浅井か嶋村」とある。正保郷帳では高七一三石余、田方四七町三反余・畑方二反余、ほかに新田高六二石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高七四一石、免四ツ四歩、小物成は猟船櫂役五匁(退転)・鮎川役二匁(三箇国高物成帳)


島村
しまむら

[現在地名]住之江区西住之江にしすみのえ一―四丁目・住之江一―三丁目・浜口西はまぐちにし三丁目、住吉区清水丘しみずがおか二―三丁目など

浜口村の南に位置し、村域は紀州街道沿いの安立あんりゆう村を挟んで東西に広がる。地形は平坦。当地はかつて築島つきしまと称し、のち略して島とよぶようになったという。「細川両家記」の享禄四年(一五三一)閏五月の記事に細川藤賢・香川中務丞の陣地を築島においたとみえるのは当地のことといわれる。住吉郡に属する。なお「摂陽群談」には「島村 一説東生郡に属すと云へり」とみえ、また、明治元年(一八六八)には大阪府北司農局が当村を東成ひがしなり郡から住吉郡へ郡替えする旨を通達しているが(大阪府全志)、その理由は不明。


島村
しまむら

[現在地名]氷見市島尾しまお

東は富山湾に面し、「万葉集」に松田江長浜まつだえのながはまと歌われた松林が続く。砂丘地帯が北西に延び、南西に畑地を隔てて水田地帯が広がる。正保郷帳の高五七八石余、田方二五町三反余・畑方一三町二反余、当村の新田として尾崎おざき村がみえる。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高七二四石・免五ツ三歩、小物成は山役一五匁、塩竈役四一三匁(退転)がある(三箇国高物成帳)。寛保二年(一七四二)の百姓七八・頭振三(「高免等書上帳」折橋家文書)。天保四年(一八三三)の家数一三〇(「家数調理帳」同文書)


島村
しまむら

[現在地名]富山市中間島ちゆうげんじま

常願寺川と同川水系広田ひろた用水に挟まれた平地に位置し、西は中間島村、東は古川ふるかわ村、北は日俣ひまた村。天正一三年(一五八五)二月一九日の土肥政繁宛行状(有沢文書)によると、新地として「嶋村一円」などが有沢図書助に宛行われている。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高二二石、免二ツ。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では免は二ツ八歩となった(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)には無家村で、打銀高四一石、免二ツ八歩(「高免帳」杉木家文書)


島村
しまむら

[現在地名]大垣市島町

あい川の左岸、大谷おおたに川の右岸に位置し、北は長松ながまつ村。慶長郷帳に村名がみえ、村高六一八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。寛永五年(一六二八)幕府領となり、正保郷帳では田高五三八石余・畑高七九石余。元禄郷帳では高五四九石余。享和四年(一八〇四)大垣藩預所となり、幕末に至る(岐阜県史)垂井たるい宿(現不破郡垂井町)の助郷を勤める(臼井本元禄郷帳)


島村
しまむら

[現在地名]福井市浜島はましま

朝倉あさくら山の北に続く、通称高台たかだいの東縁に位置する。慶長三年(一五九八)の越前国下之村島村御検地帳(「棗村誌」所収)に、分米合四〇八石九斗、田畠合二六町九反七畝二七歩とある。正保郷帳によれば田方三七〇石余・畠方三八石余。畠高は天保郷帳以後五九石余に増加。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によると、本多内蔵助と本多筑後の相給知行地であった。

安政四年(一八五七)の願状留(毛利家文書)によると、当村の用水溜池は隣村石新保いししんぼ村から出る水を引入れていたが、石新保村は砂地の高台上に位置するため溜池に砂が流れ込みやすく、当村は度々藩に対して石新保村に砂留をさせるよう願出ている。


島村
しまむら

[現在地名]竜王町島

綾戸あやど村の北に位置、村域は狭小で、集落は村域南東端にある。近世の領主変遷は綾戸村に同じ。寛永石高帳では高二八四石余。慶安二年書上では田二七一石余・畑屋敷一〇石余・永荒一石余。享保九年の大和郡山領郷鑑によれば反別一六町六反余(うち田一五七反余)、家数一五(うち本百姓一四・水呑一)・人数七四、牛二・馬一。寺は錦織きんしよく(現野洲郡中主町)末の浄土真宗正福しようふく(現廃寺)。用水は老子おいこ川・祖父そぶ川からの引水や釣池などを利用、万治三年(一六六〇)には綾戸村とともに老子川の掘溝打埋について田中たなか村を訴えている(綾戸区有文書)


島村
しまむら

[現在地名]黒磯市島方しまかた

東はくま川を隔てて大原間おおはらま村、南は下中野しもなかの村、西は上中野村および蛇尾さび川を隔てて東関根ひがしせきね(現那須郡西那須野町)、北は方京ほうきよう村。天正一八年(一五九〇)大田原氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「しま」とあり、上中野村を合せて九九石六升(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)。以後大田原藩領。奥州街道大田原宿の助郷村で宝暦一四年(一七六四)の勤高二九石余(「大田原宿助郷帳」印南敬二郎文書)


島村
しまむら

[現在地名]稲沢市島町

東は子生和こうわ村・次郎丸じろまる村に接し、村中央を流れる大江おおえ川の両岸に人家が集中し、東瀬戸ひがしせと・西瀬戸に分れている(天保村絵図、徇行記)。天文二年(一五三三)織田信秀の家臣青山余三左衛門尉が妙興みようこう寺と相論した所領に「嶋一郷」とみえる(妙興寺文書)

概高四二六石余は尾張藩付家老竹腰山城守の給知。田地八町一反七畝余・畑地二一町八反一畝余、新田二石余。


島村
しまむら

[現在地名]安曇川町青柳あおやぎ

川島かわしま村の西、東万木ひがしゆるぎ村の北に位置する。元禄郷帳に「東万木村之枝郷」とあり、高三六八石余で、旗本朽木監物・同内記・同十兵衛領と大溝藩領。天明村高帳で大溝藩領とある。「鴻溝録」にも東万木村の枝郷と記される。大溝藩からは年貢のほかに大豆納三四俵が課せられ夫役はもと一二人で、安永九年(一七八〇)より九人となる(高島郡誌)。田地の用水については本郷である東万木村とともに田中井組の水をもらっており、同組への加入を願って争論を繰広げている。


島村
しまむら

[現在地名]成東町島

成東村の南東に位置し、作田さくだ川が流れる。山辺やまべ郡に属する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三〇〇石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では下武佐田組に属し、旗本渡辺領。安永九年(一七八〇)三月には雹害が起こり、当村をはじめ一四ヵ村が計金一四両・永一貫文の拝借金を受けている(九十九里町誌資料)。同一〇年の年貢皆済目録(同資料)では米二七五俵・大豆二俵余などを納めている。


島村
ひじまむら

[現在地名]福岡町福岡・福岡新ふくおかしん

小矢部おやべ川右岸の低平地に立地。西は四十万しじま村に続き北陸街道が通る。承応年中(一六五二―五五)同街道沿いに福岡町が成立(増補大路水経)。元和五年(一六一九)の家高新帳に稗島村とみえ役家数二、赤丸組に属した。正保郷帳では高三五石余、田方二町二反余・畑方一反余。寛文三年(一六六三)の川西家高付帳(川合家文書)には村名がみえず、福岡町に含まれていた。同一〇年の村御印では草高五九石、免六ツ、小物成は猟船櫂役一〇匁(うち五匁は出来)であった(三箇国高物成帳)


島村
しまむら

[現在地名]和歌山市島

名草なくさ郡に属し、宇田森うだもり村の東南にある。村域は平野で、ろつ用水の一流が通る。古代には紀ノ川中の島で、河道変動後も島を地名としたと推定される。中世は田井たい庄に属したと思われる。永禄九年(一五六六)三月二八日付の位牌免田注文案(森家文書)には田屋たや庄の宗印なる者が荘の内外に保有する加地子得分権が示されているが、そのうちに「一反畠河辺嶋村中将ニ有り麦六斗・大豆五斗弐升作嶋村九郎大夫」とある。


島村
しまむら

[現在地名]高岡市木津きづ

千保せんぼ川左岸、横田よこた村の南、高岡町の西方に位置。正保郷帳では高四七石余、田方二町八反余・畑方三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高五一石・免四ツ二歩、新田高(寛文三・四年)一三石(三箇国高物成帳)。用水は五十玉いかだま用水を利用した(「郡事摘要」折橋家文書)。寛文三年の役家高は二(「川西家高付帳」川合家文書)


島村
しまむら

[現在地名]高砂市米田町島よねだちようしま米田団地よねだだんち

塩市しおいち村の北、竜山たつやま丘陵の北東部に位置し、法華山谷ほつけさんたに川左岸に立地する。印南いなみ郡に属した。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代を通じて姫路藩領。正保郷帳では田方五一一石余・畑方一五石余。宝暦七年(一七五七)の村明細帳(糟谷家文書)では田高六〇六石余・反別三五町余、畑高一九石余・反別二町余、家数八一・人数四〇七、石山一ヵ所、小物成は犬米・草藁銀・柿渋米など。


島村
しまむら

[現在地名]熊本市島町

白川左岸に近い低地にあり、北は島新しましん村、南は刈草かりくさ村に接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田方二五町八反余・畠方四四町四反余、分米六一九石三斗余とある。同一二年の検地帳では田方四三町八反余・畠方七三町四反余、分米一千一四四石七斗余で、竈数七〇・家数一〇五、男一二〇・女九七、牛馬二三を記載する。寛永一〇年(一六三三)一月一九日の藤崎宮祭次第書上(藤崎八幡宮文書)の「八月放生会祭礼之事」に「一、勅使屋 はり弐間ニ二間 嶋村 池畑村」とある。同一二年の地撫帳では島五郎左衛門手永に属する。その後横手手永に属し、宝暦八年(一七五八)の下ケ名寄帳では惣畝数五五町九反余、うち本方五五町余・諸開九反余で、庄屋のほか頭百姓四がいた。


島村
しまむら

[現在地名]常陸太田市島町

久慈川と支流山田川の間に位置し、北は藤田ふじた村。「和名抄」の久慈郡志万郷の地とされる。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「島村」とある。「新編常陸国誌」によると文化二年(一八〇五)の戸数九一、天保一三年(一八四二)の検地では田畠一一八町余、分米一千二一一石余であった。


島村
ぬでじまむら

[現在地名]前橋市島町

北は六供ろつく村、東は上佐鳥かみさどり村、南は公田くでん村に接し、西は利根川を隔てて上新田かみしんでん村・下新田村に対する。村名について「国志」に「ぬでと読む、これ僻字なり、字書にある事なし、按に勝軍木、ぬるでと読む、今勝軍木の三字を中略して合し、ぬるでの三音を中略して、ぬでと訓ず」とある。天正一一年(一五八三)九月二四日の「ぬて嶋村牛込大膳」に宛てた北条家朱印状(牛込文書)によると、当地の百姓が厩橋(前橋)に欠落している。


島村
しまむら

[現在地名]深浦町せき

北は日本海に面し、道路が海岸沿いにほぼ東西に発達して、西は関村、東は柳田やなぎた村へ通じる。北流する小童子こどうじ川は島村を通って日本海に注ぐ。

西津軽郡史」によれば、永禄年間(一五五八―七〇)に嶋村創立とあるが、「津軽歴代記類」では天正一三年(一五八五)に島村とみえる。天和元年(一六八一)の村書上絵図に嶋村とあり、家数二三という(西津軽郡史)。貞享四年(一六八七)の検地で嶋漁師新田を島村に改めたというが(津軽平野開拓史)、同年の検地帳によれば、嶋村は関村の支村で、田畑がまったくなく、屋敷が五反四歩、村高四・〇一一石とある。


島村
しまむら

[現在地名]板倉町大高島おおたかしま

利根川左岸にあり、東は旧あいの川を挟んで飯積いいづみ(現埼玉県北埼玉郡北川辺町)、北は高鳥たかとり村、西は大久保おおくぼ村。合の川は古利根とよばれ武蔵・上野の国境をなし、かつて利根川の主流であったとみられる。天保九年(一八三八)に締切られて廃川となった。「邑楽郡町村誌材料」によると、天和二年(一六八二)大久保・島・高鳥の三村に分郷されている。


島村
しまむら

[現在地名]白川村島

しよう川右岸に位置し、集落は牛首うしくび谷との間に挟まれた河岸段丘上にある。南は荻町おぎまち村の(戸ヶ野)、東方坂越えで牛首村、西方対岸は飯島いいじま村。元禄飛騨国検地反歩帳に村名がみえ、高三石余、田三反余・畑七反余。「飛騨国中案内」によれば免は二割九分九厘、家数一(百姓)


島村
しまむら

[現在地名]貝塚市ひがし

貝塚村の東にある南郡の村。天文二〇年(一五五一)一一月九日の孫二郎田地売券(中家文書)に「トハノ森ノ島 シマノカキソヰ」、同二一年一二月二九日の同人売券(同文書)に「トハノ森シマ村」とみえ、麻生あそう鳥羽とば村のうちであった。慶長九年(一六〇四)の検地帳(東京大学史料編纂所蔵)によると村高一九石余(うち畑七石余)


島村
しまむら

[現在地名]久美浜町字島

川上谷かわかみだに川中流部、川に沿った平坦地に集落をつくる。橋爪はしづめ村の南、芦原あしわら村の北に位置する。

川東の茶臼ちやうす山に茶臼山古墳がある。前方後円墳で、後円の部分は径六間余の円形平地であり、前方の長さ六間、前端の幅二間半、四段より形造られ高さは二間半ある。


島村
いばらじまむら

[現在地名]潟東村茨島・称名しようみよう

番屋ばんや村の南西に連なる。福島ふくじま(現中之口村)枝郷で、延宝三年(一六七五)以前は茨島新田村と称したという。明暦三年(一六五七)村上藩総検地を受け、本田畑三八石九斗一合、新田畑四七一石二斗一升一合を打出した(「村麁絵図」竹石家文書)


島村
くしじまむら

[現在地名]益城町島田しまだ

西は井寺いてら(現嘉島町)、東は東無田ひがしむた村に接する。近世は鯰手永に属し、「国誌」には「井寺村ノ内櫛島村」とある。文政二年(一八一九)の鯰手永略手鑑では、高二一六石九斗余である。明治九年(一八七六)沼山津手永に属した東無田村と合併し島田村となった。


島村
しまむら

[現在地名]彦根市日夏町ひなつちよう

中沢なかざわ村の南西に位置。慶長高辻帳に村名がみえ高三〇七石余、うち一二石七斗余は小物成。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で六ツ一分。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数二四九、うち寺社方二。


島村
しまむら

[現在地名]下館市島

小貝こかい川右岸、筑波街道沿いにあり、西は下中山しもなかやま村。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となる。江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)と寛永一六年(一六三九)の下館領五万石村々石高牒(田宮家文書)に村高一九一・六七四石とある。


島村
しまむら

[現在地名]谷田部町島

おか村の南、蓮沼はすぬま川東岸に位置。江戸時代には旗本朝比奈氏の知行地として廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には朝比奈平五郎の知行地で村高一〇八・八六七七石。


島村
しまむら

[現在地名]今立町島

轟井とどろい村の東南に位置する。大永年間(一五二一―二八)の大滝寺々庫収納田数帳(大滝神社文書)には「嶋常心」など地名を冠する者が数名記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島村」の解説

島村 しまむら

川端康成の小説「雪国」の主人公。
西洋舞踊の評論家。上越の温泉場で芸者駒子に出あい,自分と同質のものを彼女の中に発見する。一方,駒子と対照的な葉子にも心ひかれる。小説は昭和10年「文芸春秋」に連載。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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