朝日日本歴史人物事典 「沢山保羅」の解説
沢山保羅
生年:嘉永5.3.22(1852.5.10)
明治のキリスト教牧師。山口の吉敷毛利家の諸士源之丞の長男。神戸に赴き,宣教師D.C.グリーン宅で英語を学び,明治5(1872)年,私費で渡米。イリノイ州で聖書などを学び受洗,馬之進から保羅と改名。帰国後の同9年,月給150円の官界への勧誘をけり月給7円の牧師になる。外国の教会の資金援助は日本の教会に有害という立場で,日本最初の完全自給を目指し自ら創立した浪花公会(浪花教会),梅花女学校(梅花学園)でそれを達成させる。この自主独立の精神は他派にも影響を与えた。同16年大阪の宣教師会議で日本の教会自給論を発表,外国人宣教師不用論とも受け取られ反響を呼ぶ。厳格な倫理と経済面での自己犠牲を教会員に求める一方,除籍者を含む会員の名を記した手垢と涙跡の祈りのカードを最期まで離さず,岸和田,郡山,新潟と地方伝道に尽力。生涯貧困に耐え,結核と闘い,相次ぐ肉親の訃報を被る薄幸病臥の沢山を見舞った植村正久は号泣したという。後代の邦人信徒,牧師から崇敬されることとなった明治の教界代表者。<参考文献>Jinzo Naruse 《A Modern Paul in Japan》,武本喜代蔵,古木虎三郎『沢山保羅伝』,芹野与太郎『祈の人 沢山保羅』,笠井秋生,佐野安仁,茂義樹『沢山保羅』,梅花学園編『沢山保羅研究』1号~7号
(大江満)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報