沢辺琢磨(読み)さわべたくま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「沢辺琢磨」の意味・わかりやすい解説

沢辺琢磨
さわべたくま
(1834―1913)

日本ハリストス正教会最初の信者。長司祭天保(てんぽう)5年1月5日、土佐(とさ)国(高知県)土佐郡潮江村に土佐藩郷士(ごうし)山本代七信道(1805―1858)の長男として生まれる。父方従兄(いとこ)に坂本龍馬(さかもとりょうま)がいた。箱館(はこだて)(函館)で神明社宮司(ぐうじ)の女婿となり沢辺姓となる。尊王攘夷(じょうい)論者であった彼は、箱館のロシア領事館付司祭ニコライの殺害を思い立つが、ニコライと議論をたたかわすうち、正教の真理にとらえられ(1865)、宮司の職を捨てて1868年(慶応4)4月酒井篤礼(さかいあつのり)・浦野大蔵とともにニコライより受洗した。1875年(明治8)日本の正教会最初の司祭となり、東北を中心に布教に努め、正教会創設・発展に寄与した。大正2年6月25日東京にて没。青山墓地に葬られた。

[山川令子 2018年3月19日]

『石川喜三郎編『日本正教伝道誌』(1901・日本正教会編集局)』『日本ハリストス正教会総務局編・刊『大主教ニコライ師事蹟 他二篇』(1936)』『福永久寿衛著『沢辺琢磨の生涯』(1979・沢辺琢磨伝刊行会)』


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朝日日本歴史人物事典 「沢辺琢磨」の解説

沢辺琢磨

没年:大正2.6.25(1913)
生年:天保5.1.5(1834.2.13)
日本ハリストス正教会最初の日本人司祭。土佐(高知県)出身武市瑞山の高知新町道場で塾頭を務める。江戸で罪を犯して箱館に逃れ,神明社(山上大神宮)の宮司となる。養子となって沢辺琢磨と改名幼名は山本数馬。文久3(1863)年,修道司祭ニコライの日本語教師新島襄と親交を結ぶ。熱烈な攘夷論のゆえニコライ殺害の意図を持ち論争を挑んだが,逆に正教を信じるに至り,慶応4(1868)年に入信。明治8(1875)年,司祭になり,宮城,岩手,福島,東京で伝道。幕末期の志士のひとつの生き方を示した。<参考文献>福永久寿衛『沢辺琢磨の生涯』

(原誠)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「沢辺琢磨」の解説

沢辺琢磨 さわべ-たくま

1835-1913 明治時代の神父。
天保(てんぽう)6年1月5日生まれ。坂本竜馬の従弟。箱館で神職沢辺家をつぐ。ロシア正教のニコライ神父を殺害しようとして逆に感化をうけ,慶応4年日本で最初の正教会信徒,明治8年日本人初の正教会司祭となった。大正2年6月25日死去。79歳。土佐(高知県)出身。本姓は山本。幼名は数馬。洗礼名はパウエル。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の沢辺琢磨の言及

【ニコライ】より

…日本語および日本事情を学びながら,キリシタン禁制下にひそかに日本人への伝道を始めた。密航前の新島襄はニコライの門をたたいたし,のち邦人初の正教司祭となった沢辺琢磨も函館で入信した。いったん帰国し,日本伝道会社を設立し,72年に東京進出。…

※「沢辺琢磨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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