日本歴史地名大系 「河上村」の解説 河上村かわかみむら 佐賀県:武雄市河上村[現在地名]武雄市朝日町中野(あさひまちなかの)字川上(かわかみ)猪隈(いのくま)山と繁昌(はんじよう)川に挟まれた南北に細長い村である。川上とも書く。建武三年(一三三六)と考えられる橘薩摩一族所領支配注文(小鹿島文書)に「一 河上村 弥五郎入道慈雄 上課本上下覆勘之時依難儀以石童丸分被昇進者也石童丸 中下課」とある。この村には箱式石棺を内部主体とした丸山(まるやま)古墳と羨道部が破壊された横穴式円墳の鬼塚(おにづか)古墳がある。平安時代の後期は長島(ながしま)庄で蓮華王(れんげおう)院領。鎌倉時代には橘薩摩氏の領有となり、室町時代には塚崎(つかざき)庄に加えられ塚崎後藤氏の所領となった。 河上村かわかみむら 愛媛県:喜多郡河辺村河上村[現在地名]河辺村川上(かわかみ)天保九年(一八三八)以前は葛川(くずかわ)村と称し、天保郷帳にも「葛川村」と記す。河辺川の支流木菱(きびし)川の上流域にある小山村。北は現上浮穴(かみうけな)郡小田(おだ)町と現内子(うちこ)町、東と南は北平(きたひら)村、西は川崎(かわさき)・横山(よこやま)の両村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「葛川村 茅山有」とある。葛川を河上に改称したのは、文政二年(一八一九)にさかのぼることができるが(心鏡寺過去帳)、公式の村名替は天保九年六月であった(江戸御留守居役用日記)。 河上村かわかみむら 三重県:名賀郡青山町河上村[現在地名]青山町川上(かわかみ)阿保(あお)村の南に位置し、村の東端を川上川、西部を前深瀬(まえふかせ)川が北流し北端で合流する。前深瀬川に沿って耕地・集落があるが大部分は山地。本高二〇五・七二五石、平高三三四・五五石。うち一六七・二七四石は給地にあてられている。宝永四年(一七〇七)改小物成帳(上野市中村家蔵)によると、漆が二二〇匁とあり、現青山町域内の他村に比して圧倒的に多い。寛延(一七四八―五一)頃の戸数五七、人口二七六、馬二三。神社は鹿島(かしま)・伊豆那(いずな)・若宮・八幡・愛宕(あたご)、寺は大円(だいえん)寺・地蔵堂がある(宗国史)。 河上村かわかみむら 熊本県:八代郡宮原町河上村[現在地名]宮原町立神(たてがみ)東は立神村、西南は氷(ひ)川を隔て宮原村と相対し、北は大野(おおの)村(現竜北町)、西は河原(かわら)町(現竜北町)に接する。古代の官道筋にあたると推定される。慶長国絵図に「川上村」とあり、正保郷帳に田方四八石七斗余・畠方四一石七斗余とある。種山手永に属し、「国誌」は高一六一石余と記す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by