河辺村(読み)かわべむら

日本歴史地名大系 「河辺村」の解説

河辺村
かわべむら

[現在地名]相良村川辺かわべ

川辺川下流に位置し、集落は川を挟んで東と西に分れる。北は山地、東は高原たかんばるの台地、南と西はやや低地となる。北は四浦ようら村、東は深田ふかだ(現深田村)、西は山田やまだ(現山江村)、南は深水ふかみ村に接する。建久二年(一一九一)五月三日の良峯師高所領譲状案(平河文書)に「一所 同郡同庄之内河辺之村田地八町五十九石、いた三百三十貫」とあり、永吉ながよし庄に属していた。水田と山川の産物による負担という二本立が、当村の山村と平地村の中間的形態をよく示している。慶長国絵図に三二八石五斗余とあり、寛永一一年(一六三四)郷村高辻帳では本田高六二八石五斗余・新田畑高九九石九斗余とある。

河辺村
こうべむら

[現在地名]額田町河原かはら

おと川支流の河原川上流の渓流沿いに集落が立地。東は本宮ほんぐう山で和田わだ(現南設楽郡作手村)長山ながやま(現宝飯郡一宮町)、西は栃原とちはら村、南は雨山あめやま村、北は石原いしはら村と各々山で接する。

中世、男川おとがわ庄に属したというが、本宮山砥鹿とが大明神との関連で砥鹿庄に属していたと考えられる。天文年間(一五三二―五五)頃は作手つくで(現作手村)城主奥平氏の勢力圏になっていたと考えられる。天正一八年(一五九〇)吉田よしだ(現豊橋市)城主池田輝政領、慶長六年(一六〇一)幕府領となる。

河辺村
かわべむら

面積:五三・三七平方キロ

喜多郡の最東端に位置し、東は上浮穴かみうけな小田おだ町、南は東宇和郡野村のむら町、西は肱川ひじかわ町、北は五十崎いかざき町・内子うちこ町に接している。標高七〇〇―一〇〇〇メートル級の壮年期の山地が全村域に連亘し、村内を北東から南西の方向に流れる秋知しゆうち川・木菱きびし川は出合であいで合流し、河辺川となって肱川町鹿野川かのがわで肱川本流に合流するが、三河川とも深い峡谷をうがっており、集落は山腹に点在する純山村である。

河辺村
かわなべむら

[現在地名]津山市河辺

勝南しようなん郡に属し、北から南西に加茂かも川が流れ、対岸は東南条とうなんじよう押入おしいれ村。枝郷に井口いのくち村がある。嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録(竹内文平氏旧蔵文書)に大宮院(藤原子)領・前左兵衛督五辻親氏知行の河辺郷が記され、年貢二万疋とある。元応元年(一三一九)一〇月日の社家注進状(日吉山王新記)に「美作国富多庄河辺郷、弘野郷」は近江日吉社の「季節神供并四季大般若料所」であり、祝部菊若丸の奉行するところであると記される。弘治三年(一五五七)仮託の美作国献上記(美作古簡集)に河辺庄があり、大根七把を的野正平が進上するとある。天正年中(一五七三―九二)の某理昌感状(同書)に三月二三日の「河辺志戸之原合戦」が記される。

河辺村
こうべむら

[現在地名]津市河辺町

長岡ながおか村の北西、安濃あのう郡北部丘陵沿いにある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「河辺之郷」、慶安郷帳(明大刑博蔵)には「河辺村」とある。村内には亀井かめい遺跡などの弥生時代の遺物包含地および古墳数基が知られる。元徳元年(一三二九)安東郡専当沙汰文に「領主河辺少副入道次男八郎」との記事があり、この地に居住した人物かと思われる。延文二年(一三五七)二月付禰宜注進状(神宮文庫蔵御鎮座伝記紙背文書)に「安乃郡内田河辺両御園御贄口入料、足助美作守管領、任御書下、雖致催促、不及神税運上者也」とあって、伊勢神宮の御園となっていた。

河辺村
かべむら

[現在地名]青梅市河辺町

友田ともだ村の北、多摩川左岸に位置する。段丘上は武蔵野が広がっていた。東寄りに南北に通る秩父道があり、友田渡により八王子方面とも結ばれた。地内の真言宗豊山派東円とうえん寺と曹洞宗林川りんせん寺に板碑二三基が確認されている。田園簿に村名がみえ、高二九六石余(皆畑)で、幕府領、ほかに山銭永一九五文。これ以降も幕府領と考えられる。寛文八年(一六六八)の新町村検地帳(吉野家文書)では当村より二〇人・一町七反余の入作が記される。元禄郷帳では高五四三石余。文政四年(一八二一)の村明細帳(吉野家文書)によれば、高五四六石余・八一町二反余、玉川(多摩川)川運上永六六文余を上納、農業のほか男は薪・秣採りや駄賃日雇稼、女は蚕飼いや青梅縞織出しを行った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報