生没年不詳。実名は宗春。実録本『河内山実伝』によると、お数寄屋(すきや)坊主ながら幕府の実力者中野碩翁(せきおう)を後ろ盾にして、はぶりをきかせ、上野寛永寺(かんえいじ)の使僧と偽って松平出羽守(でわのかみ)邸で恐喝を働くなどの悪事により入獄、1823年(文政6)に牢死(ろうし)したという。幕末から明治にかけ、講釈師松林伯円(しょうりんはくえん)が自ら立案した長編読物『天保六花撰(てんぽうろっかせん)』のなかで活躍させ、さらに河竹黙阿弥(もくあみ)が歌舞伎世話狂言『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』(1881)に義賊肌の大悪党として脚色、9世市川団十郎が演じて、広く知られるようになった。
[松井俊諭]
(平岡正明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…通称《河内山と直侍》。配役は河内山宗俊を9世市川団十郎,片岡直次郎を5世尾上菊五郎,金子市之丞・比企東左衛門を初世市川左団次,筆職人寺田幸兵衛・高木小左衛門を中村宗十郎,松江出雲守・手代半七を坂東家橘(14世市村羽左衛門),暗闇の丑松・宮崎数馬を5世市川小団次,按摩丈賀を尾上梅五郎(のちの4世尾上松助),三千歳・腰元浪路を8世岩井半四郎ほか。松林伯円の講談《天保六花撰》の脚色で,すでに7年前に《雲上野三衣策前(さんえのさくまえ)》として東京河原崎座で上演しているが,改めて大一座のために書き直したものである。…
…幕府奥坊主頭の家に生まれ,水戸家でゆすりを働き捕らえられ獄死した。実録本《河内山実伝》と2世松林伯円作の講談《天保六花撰》(明治初年成立)によれば上野の使僧の名を詐称し,井伊侯(講談では雲州侯)邸でかたりを働いたことになっているが,この話は《男作五雁金(おとこだていつつかりがね)》(竹田出雲作,1742初演)のうち,案(あん)の平兵衛が呉服屋山川屋を助けるくだりを換骨奪胎したものとみられる。宗春は実録本では宗心,歌舞伎では宗俊とされて,舞台化は河竹黙阿弥によって講釈から脚色,1874年《雲上野三衣策前(くものうえのさんえのさくまえ)》として初演,1881年3月新富座で《天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)》として改作上演された。…
…また,1934‐37年ころ,京都の鳴滝の住人だった8人の脚本家・監督が〈鳴滝組〉というグループをつくり,梶原金八という合同ペンネームで〈ちょん髷をつけた現代劇〉をめざしてシナリオの共同執筆や映画の共同製作を行ったが,そのグループの中心になったのも,山中貞雄であった。《街の入墨者》(1935),《河内山宗俊》(1936),《人情紙風船》(1937)は前進座が出演した作品であり,《河内山宗俊》は時代劇初出演の原節子(当時16歳)が,その〈かれんな美しさ〉で一躍注目を浴びた作品でもある。【田村 良夫】。…
※「河内山宗俊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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