映画女優。横浜市生まれ。姉の夫、熊谷久虎(くまがいひさとら)監督に推されて1935年(昭和10)日活入社。山中貞雄(さだお)監督の『河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)』(1936)、日独合作映画『新しき土』(1937)などでその美貌(びぼう)を注目される。第二次世界大戦後、黒澤明監督『わが青春に悔なし』(1946)、吉村公三郎監督『安城家の舞踏会』(1947)、今井正監督『青い山脈』(1949)で知性的なヒロインを好演、トップスターの座を確保する。そして小津安二郎(おづやすじろう)監督の傑作『晩春』(1949)、『麦秋』(1951)等で彼女の「永遠の処女」の神話的イメージが決定づけられた。その後も小津作品などに出演したが、1963年以降映画界を自然引退。
[佐伯知紀]
『佐藤忠男監修『永遠のマドンナ――原節子のすべて』(1986・出版協同社)』▽『千葉伸夫著『原節子伝説』(1995・翔泳社)』▽『四方田犬彦著『日本の女優』(2000・岩波書店)』▽『千葉伸夫著『原節子――伝説の女優』(2001・平凡社)』▽『片岡義男著『彼女が演じた役――原節子の戦後主演作を見て考える』(ハヤカワ文庫)』
日本の映画女優。〈永遠の処女〉〈聖処女〉とうたわれ,引退後は〈日本のガルボ〉とまで呼ばれるほど神秘的なイメージを保ちつづける〈永遠のスター〉である。横浜市生れ。義兄の熊谷久虎監督(のちに《阿部一族》(1938)などの名作をつくる)の紹介で映画界入り。本名は会田昌江だが,デビュー作の田口哲監督《ためらふ勿れ若人よ》(1935)で演じた〈節ちゃん〉と呼ばれる女学生の役名から,当時の日活多摩川撮影所長根岸寛一が原節子という芸名をつけたという。
山中貞雄監督《河内山宗俊》(1936)ですべての無頼の男たちに〈この美しい瞳のためなら死んでもいい〉と思わせるほどの清純でかれんな美しさをもつヒロインの役に抜擢(ばつてき)され,次いで日独合作映画《新しき土》(1937)の製作のために来日したアーノルド・ファンク監督の目にとまり,〈日本一の娘形〉という折紙をつけられてヒロインに起用され,スターの座についた。黒沢明監督の戦後第1作《わが青春に悔なし》(1946)から始まる彼女の戦後のキャリアは,大女優にふさわしく,吉村公三郎監督の戦後第1作であり〈戦後最初の日本映画の傑作〉という評価を得た《安城家の舞踏会》(1947),黒沢明とならんで戦後の日本映画を背負う期待の新鋭監督だった木下恵介の《お嬢さん乾杯》(1949),東宝青春映画路線の出発点になった今井正監督の《青い山脈》(1949)から一連の小津安二郎監督作品(《晩春》1949,《麦秋》1951,《東京物語》1953,《東京暮色》1957,《秋日和》1960,《小早川家の秋》1961)に至るまで,多彩で豊かなものであるが,清純型ヒロインから日本女性らしい美しさに輝く熟年にさしかかった42歳で,稲垣浩監督の《忠臣蔵 花の巻・雪の巻》(1962)を最後の出演作として,引退する形になった。
執筆者:広岡 勉
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(2015-11-27)
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