東京にあった劇場。1872年(明治5)に,猿若町にあった守田座が京橋区新富町6-9に移転,75年に新富座と改称した。76年に類焼,翌年仮小屋で開場,78年6月本建築がなり,このとき外国公使,大臣など朝野の名士を招待し,役者は燕尾服,座方関係者はフロック・コートで挨拶し話題になった。以後,新富座時代を築き明治前期の日本を代表する劇場となって,文明開化の社交場ともなった。しかし,79年9月外人の一座を招いて劇中劇に《漂流奇談西洋劇(ひようりゆうきだんせいようかぶき)》という合同劇を上演させて失敗。このころから座主守田勘弥の負債がかさみはじめ,その後は座主名義を変更したり,座主が変わったりして,座名も猿若座,桐座,深野座,都座などと頻繁に変わっている。97年新富座に復名,1909年松竹合名社が買収,23年関東大震災で焼失するまで存続した。
執筆者:阿部 優蔵
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
歌舞伎(かぶき)劇場名。前名守田座。東京市京橋区新富町に1872年(明治5)10月13日開場。守田座の座主12世守田勘弥(かんや)は明治維新後の時流を見抜き、天保(てんぽう)期(1830~44)以来の劇場界であった猿若(さるわか)町から都心進出を企て、新富町に当時最大の規模と最新設備をもった劇場を建設、75年3月株式組織となるとともに新富座と改称した。76年類焼したが、78年にはさらに規模も大きくガス灯など近代設備を施して華々しく再開場。以後名優を網羅して演劇改良、欧化主義による演目を上演した。82年ごろから経営不振となり、猿若座、桐(きり)座、深野(ふかの)座などと名称を変え、経営者も転々とした。1909年(明治42)松竹合名社の経営となり、東西の俳優を交流させた興行を続けたが、23年(大正12)関東大震災のため焼失、廃絶した。
[菊池 明]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
明治・大正期の東京の劇場。江戸三座の守田座の後身。1872年(明治5)座元の12世守田勘弥が新富町に進出,75年に新富座と改称,78年には新装開場式を挙行した。演劇改良運動を推進し,構造や組織,また内容面でも西洋風の新様式をとりいれたが経営は苦しく,82・89・91年には猿若座・桐座・深野座の名義で興行,勘弥は表向き経営を離れた。95年に勘弥と絶縁,経営は転々とし,1909年松竹合名社が買収,23年(大正12)の関東大震災で焼失後,再建されなかった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…日本の場合も同様である。1872年の新富座移築にはじまる明治の劇場改良運動の背景には,都市改造と衛生改良という二つの国家規模での安全運動があった。厚い壁と天井によって外界から分離され,内部空間が舞台と客席とに分割された〈近代劇場〉のかたちは,こうして都市の安全を第一の価値として守るという理念によって裏打ちされたまま今日にいたる。…
…京阪においても同様の処置が行われた。12世守田勘弥が,守(森)田座を猿若町から新富町に移転して新富座を新築し,観客席の一部を椅子席として観劇の仕組を改革したり,また植村文楽軒の操芝居が,大阪博労町の稲荷社境内から松島に移って,文楽座と名のって興行をしたのが,ともに明治5年のことである。99年11月に,福地源一郎(桜痴)と千葉勝五郎らによって木挽町に歌舞伎座(1824席)が開場した。…
…72年12世守田勘弥は新機構を採り入れた大規模な劇場を新富町に建設,開場した。歌舞伎を新時代の社会に位置付けようとする勘弥の意欲によってなされたことであったが,経済的な困窮は解消せず,75年には新富座と改称され,守田座という名称はここで消える。守(森)田勘弥【近藤 瑞男】。…
※「新富座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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