朝日日本歴史人物事典 「河島醇」の解説
河島醇
生年:弘化4.3.6(1847.4.20)
明治期の官僚,政治家。父は薩摩藩(鹿児島県)藩士河島新五郎。号は盤谷。藩校造士館で学ぶ。戊辰戦争で会津攻略などに参加したのち明治3(1870)年東伏見宮嘉彰(のちに小松宮彰仁)親王の英国留学に随行。7年,外務省1等書記官としてドイツ公使館勤務を命じられ,以後露,オーストリア各公使館に勤務しながら各地の大学で法律,経済,財政などを学ぶ。帰国後,15年伊藤博文の憲法調査の渡欧に随い,主にシュタインから行政学を学んだ。18年大蔵省参事官。中村元雄,加藤済と並んで大蔵3人男と称せられたが,憲政に関する意見書が受け入れられず辞職した。第1回衆院議員選挙(1890)には鹿児島から出馬して当選し自由党に所属したが,第3議会以後は同盟倶楽部,立憲革新党,議員倶楽部などを転々とし対外硬論を唱えた。30年議員を辞職し,日本勧業銀行総裁に就任したが,人件費抑制策などを株主が批判したために辞任。その後滋賀,福岡両県知事,北海道庁長官を歴任。剛毅,豪傑の人といわれる。36年貴族院勅選議員。<参考文献>河野弘善『河島醇伝―日本勧業銀行初代総裁』
(長井純市)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報