滋賀(読み)しが

精選版 日本国語大辞典 「滋賀」の意味・読み・例文・類語

しが【滋賀】

[一] 滋賀県南西部の郡名。琵琶湖と比良山地にはさまれた地域で、かつては大津市一帯が含まれていた。古くは、「志賀」とも表記。
[二] 「しがけん(滋賀県)」の略。

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デジタル大辞泉 「滋賀」の意味・読み・例文・類語

しが【滋賀】

近畿地方北東部の県。近江おうみ国の全域を占める。県庁所在地大津市。中央部に琵琶湖がある。古くは「志賀」とも書いた。人口141.0万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「滋賀」の意味・わかりやすい解説

滋賀[県] (しが)

基本情報
面積=4017.36km2(全国38位) 
人口(2010)=141万0777人(全国28位) 
人口密度(2010)=351.2/km2(全国15位) 
市町村(2011.10)=13市6町0村 
県庁所在地=大津市(人口=33万7634人) 
郷土の花シャクナゲ 
県木=モミジ 
県鳥=カイツブリ

近畿地方の北東部に位置する内陸県で,東は岐阜県,西は京都府,南は三重県,北は福井県に接し,県央に琵琶湖をかかえる。面積,人口ともに全国のほぼ1%にあたるので〈100分の1県〉といわれる。

県域はかつての近江国全域にあたる。江戸末期には彦根藩をはじめ,膳所(ぜぜ),水口(みなくち),大溝,西大路,山上,宮川,三上の諸藩が置かれていたほか,天領,旗本領,他藩の飛地,寺社領,公家領,宮家領が複雑に入り組んでいた。1868年(明治1)大津裁判所,続いて大津県が置かれて天領はじめ諸領地をつぎつぎと管下に治め,71年大溝藩を併合した。一方,70年に三上藩遠藤氏が和泉国へ移ったが(吉見藩),新たに羽前国山形藩水野氏が移封されて朝日山藩として立藩した。71年廃藩置県を経て大津,膳所,水口,西大路諸県が大津県に,彦根,山上,宮川,朝日山諸県が長浜県に統合され,近江はほぼ南北に二分された。翌年大津県は滋賀県,長浜県は犬上県と改称,さらに滋賀県が犬上県を併合して現県域が成立した。なお76年敦賀県の廃県に伴い,若狭国全域と越前国敦賀郡を編入したが,81年福井県の再置により同県に移管している。
近江国

滋賀県の先史・古代文化は琵琶湖を中心に展開された。縄文早期の石山貝塚(大津市)もそれをよく示している。押型文土器から石山式までを出す淡水貝塚で,ここで近畿の早期の編年が確立された。早~中期にわたる安土遺跡(近江八幡市)は,とりわけ前期の北白川下層式土器や玦状(けつじよう)耳飾などの出土で知られる。晩期の滋賀里式の標式遺跡である滋賀里遺跡(大津市)では貝塚,土坑墓,甕棺墓などが調査され,北陸系の土器や大洞B~C2式土器,弓,槍,木器類なども出土した。同じく晩期の杉沢遺跡(米原市)では合せ口甕棺や御物石器などが出土している。

 弥生時代では,前~中期の方形周溝墓360基を数えた服部遺跡(守山市),中期を中心とする集団墓地である南滋賀遺跡(大津市),高地性集落の京ヶ山・惣山(そうやま)遺跡(大津市),多数の銅鐸の出土で有名な小篠原(こしのはら)遺跡(野洲市)などがある。また大中之湖南(だいなかのこみなみ)遺跡(近江八幡市,東近江市)は中期初頭の集落址で,貝塚と水田址を伴い,初期水稲農耕社会の実態を知るうえで重要な遺跡であり,多数の木器や木偶も出土した。

 古墳時代では,まず瓢箪山(ひようたんやま)古墳(近江八幡市)が4世紀後半期の大型前方後円墳(全長約160m)として貴重。新開(しんがい)古墳(栗東市)は2基の木棺を直葬し多くの副葬品を伴う1号墳と,鉄鋌(てつてい)の副葬で注意される2号墳からなり,5世紀中ごろと思われる。また鴨稲荷山(かもいなりやま)古墳(高島市,稲荷山古墳)は全長45mほどの前方後円墳だが,横穴式石室中に刳抜式家形石棺をもち,金製品や玉,鉄器など6世紀の標式的な副葬品のセットで知られる。

 歴史時代では,まず近江大津宮址(大津市)がある。667-672(天智6-天武1)の都城址であるが,なお不明な点も多い。崇福寺(すうふくじ)址(大津市)は大津京遷都直後に創建されたと推定される山岳寺院址で,心礎から舎利容器が出土している。近くで珍しい平安時代の梵鐘鋳造址が調査されている。近江国府址(大津市)は方二町の律令時代国庁の典型的な建物配置が知られた貴重な例である。雪野寺(ゆきのでら)址(蒲生郡竜王町)は奈良時代前期の寺院址で,多数の塑像片が出土し,古代地方寺院での仏像造立の実態究明と仏教美術史に貴重な資料を与えた。

 このほか,琵琶湖葛籠尾崎(つづらおざき)湖底遺跡(長浜市)は最も滋賀県らしい遺跡ともいえよう。琵琶湖に60ヵ所以上ある湖底遺跡の中でも古くから有名で,縄文各期,弥生の土器から土師器に至る数十点の完形土器が引き揚げられている。なお,こうした遺跡の成因については陸地陥没説,流失説,奉献説,運搬船沈没説などさまざまな仮説が唱えられている。
執筆者:

本州のほぼ中央に位置し,若狭湾と伊勢湾が湾入する地峡部にあたっている。県域は南北にやや長い楕円形で,近江盆地とその集水域にほぼ合致する。県境は北東を伊吹山地,東を鈴鹿山脈,西を比良山地で取り巻かれているが,これらはおもに古生層からなる断層山地で,山腹に急斜面が発達している。中央に県の面積の1/6を占める琵琶湖が位置するが,〈湖国〉といわれるように,琵琶湖は滋賀県の政治,経済,社会,文化の各面にわたって,古くから大きな役割を果たしてきた。琵琶湖の周囲には,湖南では野洲(やす)川,日野川,湖東では愛知(えち)川,犬上川,湖北では姉川,湖西では安曇(あど)川などが形成した沖積平野がひろがり,古くから水田が開かれ,古代の条里地割の遺構がみられる。滋賀県は田が経営耕地面積の94.2%(1995)を占めているが,河川の多くが天井川のため,農民は干ばつによる水不足に悩まされてきた。昭和初期に琵琶湖の水をモーターで揚水する逆水灌漑がとり入れられ,さらに第2次大戦後,犬上ダム,野洲川ダムなどがあいついで完成したことによって,ようやく水不足の不安が解消された。琵琶湖岸にはかつては大小40余の内湖と呼ばれる潟湖があったが,第2次大戦中から戦後にかけて食糧増産のためにそのほとんどが干拓された。1968年に竣工した大中之湖(だいなかのこ)干拓地(1145ha)は琵琶湖最大の干拓地で,216戸が入植し,大型機械を導入して共同作業による近代的な米作農業を始めたが,70年来の減反政策は米作を基調とする干拓地に大きな影響を与え,肉牛飼育,施設園芸,漬物加工など多角経営が進行した。なお,近江八幡市の西の湖一帯だけは,現在もヨシの茂る水郷景観を残している。

 気候は湖北では日本海型の,湖南では瀬戸内型の特性を示す。湖北は日本の深雪地帯の南西端にあたり,山間部では平均積雪が3mにも及ぶが,湖南では10~20cmにすぎない。年降水量は湖北の山地では多雪のため3000mm以上に達するが,湖南では1600mm以下である。

滋賀県の農業は水田農業が中心で,農家数は5万4346戸(1995)であるが,そのうち専業農家はわずか5.8%,第2種兼業農家が87.7%の高率を占めている。県のほぼ全域が京阪神の大都市圏に包摂されているので,今後も引きつづき通勤兼業化がすすみ,農業労働力の不足と高齢化が深刻な問題になりそうである。林業は,かつては木炭とマツタケの生産が主として行われていたが,近年は激減し,代わって鈴鹿山脈北部や朽木(くつき)山地でシイタケの栽培が行われている。

 かつては〈えり(魞)〉が立ち並び,特有の景観を見せていた琵琶湖の漁業は,水質の悪化により近年,漁獲量が減少している。魚類では小アユが,貝類ではシジミが漁獲量第1位である。また全国の河川に放流されるアユ苗と,淡水真珠の養殖が行われている。

 大正中ごろから昭和初期に,豊富な工業用水を求めて,レーヨンなどの繊維工場が大津,彦根,長浜などの琵琶湖岸に立地したが,第2次大戦前までは,滋賀県はまだ農業県の性格が強かった。1964年の名神高速道路の開通を契機として,栗東(りつとう),八日市,彦根の各インターチェンジ付近や国道1号,8号線沿いに,電気機械器具,一般機械器具,輸送用機械器具,化学工業などの非用水型の工場立地が活発になり,滋賀県は農業県から工業県へ急速に変貌した。このような工業化の背景として,1960年代の道路交通体系の整備とほぼ前後して,湖南工業団地(29ha,立地企業49社)をはじめとする多数の工業団地が県内各地に造成されたことも無視できない。県の製造品出荷額5兆9058億円(1995)のうち,電気機械器具が27.8%を占め,一般機械器具11.4%,輸送用機械器具8.4%,窯業・土石製品8.4%,プラスチック製品8.0%,化学工業7.7%であり,比較的バランスのとれた多彩な工業が発達している。

滋賀県は〈通過県〉といわれるが,古くから交通の要衝に位置していた。古代には,東海道,東山道,北陸道の3本の官道が国内を通り,国境外には鈴鹿,不破(ふわ),愛発(あらち)の三関が置かれ,琵琶湖の水運は北国米の畿内への輸送ルートとして重要な役割を果たした。近世には,東海道,中山道,西近江路などの幹線道路が通じ,草津宿をはじめとして多くの宿場町がにぎわった。明治期になって鉄道時代が幕あけすると,まず1880年に京都~大津(浜大津)間の鉄道が開通し,84年には長浜~金ヶ崎(敦賀)間の北陸線が一部開通した。米原~大津間の湖東線(現,JR東海道本線)が全通するのは89年のことであるが,それまでの数年間は,大津~長浜間は琵琶湖上を汽船で連絡していた。90年東海道沿いに草津~柘植(つげ)間の関西鉄道(1907年国鉄のちJR草津線になる)が開通し,1900年には御代参(ごだいさん)街道に沿って彦根~貴生川(きぶかわ)間の近江鉄道が開通した。滋賀県の鉄道網は明治末年までにほぼ形成され,最も遅れたのが湖西で,31年ようやく西近江路沿いに江若(こうじやく)鉄道の浜大津~近江今津間が営業を開始した(69年廃止)。第2次大戦後,64年に東海道新幹線の米原駅が設置され,74年には国鉄(現JR)の湖西線が開通した。

 滋賀県は交通の便がよく,琵琶湖国定公園,鈴鹿国定公園があり,国宝・重要文化財の数も全国第4位と,歴史文化資源に恵まれている。これらの歴史文化資源が県内各地に点在しているので,1994年に滋賀県は〈近江歴史回廊構想〉を策定し,〈みずうみ〉の国,〈みち〉の国,〈ほとけ〉の国という近江の歴史の重層性を背景にテーマ性とストーリー性を配慮して,近江戦国の道,比叡山と回峰の道,湖東山辺(やまのべ)の道,湖北観音の道,湖西湖辺(うみのべ)の道,近江商人の道,近江中山道,近江万葉の道,近江東海道,湖南観音の道の10本の探訪ルートを提示した。

滋賀県は,その歴史や自然的・経済的条件のちがいによって,湖南,湖東,湖北(高島郡を含む)の3地方に大きく区分される。

(1)湖南地方 県の南部,大津市を中心に草津,守山,栗東(りつとう),野洲,湖南,甲賀市を含む。琵琶湖の南湖(野洲川の湖成三角州と対岸の堅田を結ぶ線すなわち現在の琵琶湖大橋より南の湖域をいう。なお北は北湖と称する)を取り囲み,西は比叡山地で京都市と境されている。野洲川の沖積平野が広がり,古くは近江米で知られる農村地域であったが,第2次大戦後,急速に都市化がすすみ,最近は人口増加が著しく,県人口の半数を占める。経済活動も活発で,京阪神大都市圏内に含まれつつある。県庁所在地の大津市は,667年(天智6)に天智天皇が大津京を造営した地で,近世には東海道の宿場町,琵琶湖水運の港町として繁栄するとともに,園城(おんじよう)寺(三井寺)の門前町的な機能をもっていた。古琵琶湖層群からなる瀬田丘陵は古代の近江国府が置かれた地であるが,滋賀医科大学,竜谷大学,県立図書館,県立近代美術館,県立埋蔵文化財センターなどが立地し,県の新しい文化・教育の中心地に変貌しつつある。草津市は,近世には東海道と中山道の分岐点の宿場町としてにぎわったが,東海道本線の京都~草津間の複々線化(1970)によりベッドタウン的な性格が強まった。1964年に琵琶湖の最狭部に琵琶湖大橋が架橋されたことにより,南湖の東西両岸の連絡が緊密になり,湖南地方のまとまりがよくなった。国道1号線と8号線の分岐点にあたり,名神高速道路のインターチェンジを備える栗東市付近は,県下最大の工業地域に発展した。また日本で第2の規模を誇る日本中央競馬会栗東トレーニングセンターがある。甲賀市は丘陵と山地が多くを占め,甲賀流忍術の発祥地として知られているほか,旧信楽(しがらき)町の信楽焼,旧甲賀・旧甲南両町の製薬業などの地場産業に特色がある。

(2)湖東地方 県の東部,彦根,近江八幡,東近江の3市を中心に蒲生,愛知,犬上の諸郡を含む。愛知川と犬上川が形成した湖東平野が広がる。東を三重県と境する鈴鹿山脈にはカルスト地形が発達しており,山麓に西明(さいみよう)寺,金剛輪寺,百済(ひやくさい)寺の〈湖東三山〉がある。古くから肥沃な米作地帯として知られ,水田には条里地割の遺構がみられる。湖東平野は近江商人の出身地として知られており,近江八幡市や蒲生郡日野町,東近江市の旧五個荘町などに今なお近江商人の広大な家屋敷が残っている。彦根市は井伊氏35万石の城下町で,国宝の天守閣がそびえ,武家屋敷,足軽組屋敷などの町並みがよく残っており,仏壇,バルブなどの地場産業が盛んである。東近江市の旧八日市市は御代参街道と八風(はつぷう)街道が交差する市場町として発達したが,名神高速道路の開通(1964)によって工業化がすすんだ。〈宇治は茶所,茶は政所〉とうたわれた愛知川上流の〈政所茶〉,日野町の製薬などの地場産業がある。愛知川上流の東近江市の旧永源寺町蛭谷と君ヶ畑は,日本全国の木地師のいわば聖地で,かつては木地の生産が盛んであったが,現在はまったく姿を消している。

(3)湖北地方 県の北部で,長浜市を中心に米原・高島両市,および東浅井・伊香両郡を含む。面積は県の1/3を占めるが,人口は1/6である。気候が日本海型で積雪量が多い。湖北地方の民家は,雪止め瓦をふくとともに,湖南地方のシチニ(1坪に72枚ふける瓦)にくらべて分厚くて大きいゴンロク(1坪に56枚ふける瓦)を使っている。米原市の旧山東町から岐阜県の関ヶ原にかけての地峡部に東海道新幹線,東海道本線,名神高速道路,国道21号線などが通じているが,冬季は〈関ヶ原の吹き出し〉現象で大雪に見舞われ,交通に支障をきたすことが少なくない。水田は畦畔木(けいはんぼく)(ハンノキと万年杭の2種類がある)のみられる独特の景観を呈しており,ほとんどが一毛作田で,姉川流域の農村では江戸時代から養蚕が盛んであった。長浜市は近世中ごろからビロード,ちりめんなどの繊維工業が盛んになり,第2次大戦後,機械,金属,合成樹脂などの工場が立地し,県下有数の工業都市になった。西部地区の高島市の旧今津町は琵琶湖水運の要地として栄えたが,現在はレジャー・観光基地となっている。湖北平野最北端の長浜市の旧木之本町は往時の北国街道の宿場町で,大音,西山の琴糸,三味線糸の生産は全国の80%を占める。そのほか古い歴史をもつ地場産業としては,安曇川三角州の扇骨(せんこつ),織物,米原市上丹生の木彫の製造などがある。湖北地方の寺院には,長浜市の旧高月町渡岸(どうがん)寺(向源寺)の木造十一面観音立像(平安時代,国宝)をはじめとして多数の観音像が安置され,〈観音の里〉と呼ばれている。竹生(ちくぶ)島など景勝の地にめぐまれ,スキー場も数多く開設されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「滋賀」の意味・わかりやすい解説

滋賀
しが

滋賀県南部、大津市北郊の一地区。旧滋賀村。古くは志賀とも書いた。667年(天智天皇6)から672年(天武天皇1)の間、大津宮が置かれた地とも推され、滋賀百穴古墳群、崇福寺(すうふくじ)址(し)など考古学的遺跡も多い。山中越えで京都と結ばれる交通上の要地でもあった。「楽浪(ささなみ)」の枕詞(まくらことば)で歌に詠まれることが多く、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の「楽浪の志賀の大曲淀(おおわだよど)むとも……」(『万葉集』巻3)や「さざなみの志賀の都は荒れにしを……」(『千載集』)がよく知られる。現在は保養地や住宅地となっている。国道161号が通じ、京阪電鉄滋賀里駅などがある。

[高橋誠一]

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