河戸村
こうとむら
[現在地名]喜連川町上河戸・下河戸
現喜連川町の北西部、江川の本支流が合流する一帯を占め、上流に上河戸、合流点より下流に下河戸が位置する。もとは上下併せて一村であったが、寛永三年(一六二六)分村したと伝える(喜連川町誌)。ただし天保郷帳までの郷帳類では河戸村一村で高付されている。上河戸を原街道、下河戸を奥州街道が通り、いずれも当地で江川を渡河する。地名はこうした地理的条件から発生したものであろう。なお当地から江川下流の和田・金枝・鹿子畑、川井(現那須郡南那須町)にかけての流域を、古くは川井庄・桜井里と称したと伝え、花菖蒲ヶ里ともいわれた。口碑によれば熊田郷川井庄を称したというので、「和名抄」の那須郡熊田郷に属した村里であったかもしれない。桜井里を称するのは、下那須氏麾下の桜井氏が管したことによるか。
那須郡に属し、慶安郷帳には川戸村とみえ、田高五二四石余・畑高八六石余、もと那須衆の旗本福原領(幕末に至る)。
河戸村
こうどむら
[現在地名]河内町河戸
宇山・小田両村の南に位置し、南は賀茂郡貞重村(現東広島市)。中央部を戸野川(沼田川)が蛇行して流れ、その流域の平坦地に農耕地が展開する。「郡戸」とも記され、条里制の遺構がみられ、国衙領があったことなどから、豊田郡の郡衙の所在地とする説もある。北部に義庵坊古墳がある。
建武三年(一三三六)一一月二六日の足利尊氏寄進状(本圀寺文書)にみえる安芸国郡戸郷にあたり、当郷を含む一〇ヵ所が京都本圀寺に寄進されている。その後、貞和三年(一三四七)五月には西隣の戸野郷とともに近江園城寺新羅社造営料所とされ(園城寺文書)、文和元年(一三五二)一〇月六日、足利義詮により園城寺に寄進された(同文書)。一方、東寺百合文書によると、郡戸郷・戸野郷の国務分が京都東寺に与えられたが、しばしば小田小早川家に押領され(→戸野村)、応永(一三九四―一四二八)頃には、小早川則平・持平ら沼田小早川家が地頭・公文職を取得している(小早川家文書)。
河戸村
かわとむら
[現在地名]智頭町山根
山根村の南にあり、川戸村とも書く。集落は土師川に穂見川が合流する辺りに位置し、備前街道が通る(因幡志)。拝領高は四五石余。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高五〇石余、毛付高五六石余、本免五ツ七分、同年の物成高二七石余、ほかに川役米五升が課されていた。天明―寛政年間(一七八一―一八〇一)のものと推定される書上(古田家文書)によれば田畑畝数三町二反余、家数二・人数一五、牛二。「因幡志」では家数五、安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によれば生高四七石余、、竈数四。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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