河内町(読み)こうちちよう

日本歴史地名大系 「河内町」の解説

河内町
こうちちよう

面積:八七・七一平方キロ

東広島市の成立により二分された賀茂郡のうち、北東部にある郡域の南端に位置し、西は東広島市、南は竹原市、東は豊田郡本郷ほんごう町に接する。町内を沼田ぬた川、その支流椋梨むくなし川・入野にゆうの川などが流れ、各地に小盆地を形成し、耕地が展開する。椋梨川を小田おだでせき止めた椋梨ダムは多目的ダムで、人造湖の白竜はくりゆう湖が小田と隣接する大和だいわ町にまたがって水をたたえ、水力発電とともに備後南西部一帯の水がめの役を果している。


河内町
かわちまち

面積:三四・四〇平方キロ

南北の二地域に分れた飽託郡の北域に属し、西は有明海、北は西から玉名たまな天水てんすい町・玉東ぎよくとう町、鹿本かもと植木うえき町、東は北部ほくぶ町、南は金峰きんぼう山などの山で熊本市に接する。金峰山(一ノ岳)くまノ岳(二ノ岳)さんノ岳に囲まれ、全体に平地に恵まれず、水田は少ないが、山の裾野丘陵は蜜柑園が造成され、温暖な気候とあいまって蜜柑の河内として知られる。熊ノ岳に源を発し東流して井芹いせり川となる立福寺りゆうふくじ川と、金峰山から発して西流して有明海に注ぐ河内川の流域に集落が点在し、町域も大きく二つに分けられる。町域はほぼ金峰山県立自然公園に含まれ、山と海の自然に恵まれている。


河内町
かわちまち

面積:四七・六九平方キロ

県のほぼ中央部に位置し、東は塩谷郡高根沢たかねざわ町、北は上河内村、南・西は宇都宮市に接する。東境を鬼怒川が流れ、同川に沿って西鬼怒川が流れる。西部を山田やまだ川が南流し、同川以西は丘陵地をなす。中央部を東北新幹線が縦断し、西側沿いに通称田原たわら街道が通る。東南部をJR東北本線が走り、岡本おかもと駅がある。同本線東側を国道四号が抜ける。西部丘陵地帯には立伏りゆうぶくなど縄文時代から古墳時代の遺跡三〇余が確認され、東部の鬼怒川台地には一〇余の縄文期の遺跡がある。また宇都宮市との境には塚原つかはら古墳群がある。はしは「義経記」にも記され、中世には鬼怒川の渡河地であった。


河内町
かわちまち

[現在地名]北区東天満ひがしてんま二丁目

壺屋つぼや町の西にあり、高島たかしま町西筋の北に延びる両側町。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図には東木挽ひがしこびき町とみえる。のち河内町となり(初発言上候帳面写)、元禄年間(一六八八―一七〇四)の大坂三郷町絵図に町名がみえる。もとは木挽職人が集まっていたのであろうか。大坂三郷天満組に属し、同一三年の三郷水帳寄帳では屋敷数二五・役数二一役で、うち年寄分一役が無役。年寄は笹屋仁左衛門。


河内町
かわちまち

[現在地名]水口町八光はつこう八坂やさか

きた町南端に直交し、東海道を挟み東に延びる両側町。町並は慶長五年(一六〇〇)以降順次整備されたものと思われる。延宝七年地子赦免帳では居屋敷二一・明屋敷三・明家一。文久二年書上では居家一五・明地一・店舗一・曳山山蔵一(隣接して夜番所がある)を数え、居家の内訳は商家七・旅籠一・百姓五・桶屋職一・畳職一。


河内町
かわちまち

[現在地名]金沢市石引いしびき一丁目

土取場つちとりばの北西に位置。江戸時代には加賀八家の一、奥村河内守の屋敷地で、明治二年(一八六九)町立てされた。元和九年(一六二三)のちの兼六園の地にあった奥村河内守の下屋敷地が焼失、元禄九年(一六九六)当地に移り、翌年上地となった(金沢古蹟志)


河内町
かわちまち

1996年6月1日:稲敷郡河内村が町制施行
【河内村】茨城県:稲敷郡

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「河内町」の意味・わかりやすい解説

河内〔町〕
かわち

茨城県南部,利根川に沿う沖積低地にある町。 1955年生板,源清田 (げんせいだ) ,長竿の3村が合体して河内村となり,58年金江津村を編入。 96年町制。利根川と新利根川の間にあり,早場米地帯として知られる。園芸野菜栽培なども行われている。国道 408号線が通る。面積 44.30km2。人口 8231(2020)。

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