河野常吉(読み)こうの・つねきち

朝日日本歴史人物事典 「河野常吉」の解説

河野常吉

没年:昭和5.9.3(1930)
生年文久2.11.22(1863.1.11)
明治大正期の北海道史研究者。信濃国島内村(松本市)に通重の次男として生まれる。松本師範学校を卒業後,県下の福島学校校長を務めたが,明治14(1881)年上京,慶応義塾に学ぶこと2年,秋田県小真木鉱山の分析主任となる。郷里へもどって養蚕業に従事,『信陽日報』客員として活動,また,このころ自由民権運動にも関係していたといわれる。その後,長野県庁や東京中央気象台に勤務,この間の学歴,職歴のなかで,人文・自然科学の広範な教養を身につけている。27年北海道へ移り,北海道庁嘱託となって拓殖行政にかかわるようになる。拓殖状況の現地調査に努め,31年から34年の間に,根室,日高,釧路,十勝,北見の各国について『北海道殖民状況報文』をまとめた。自然条件,地域の沿革に触れた拓殖状況の報告は,当時をとらえる貴重な資料となっている。北千島,樺太の調査にも参加し,また『殖民公報』(1901~21,123号まで)のほか,『北海道拓殖要覧』『第二拓地殖民要録』『道治一斑』『北海道殖民の進歩』『北海道旧土人』など道庁の拓殖事業関係の刊行書の編纂に業績をあげ,『函館区史』(1911)を執筆,日本原住民コロボックル説を批判する立場で学界論争へ参加するなど史学,考古学,アイヌ研究の分野でも大きな影響力を示した。開道50年記念事業の北海道史編纂事業では編纂主任となり,大正7(1918)年『北海道史第1』(近世末までの通説)と『附録地図』の公刊を実現した。年表統計も製本までできていたが,配付されず,そのうち関東大震災の折にほとんど焼失してしまった(1975年,著作集の一部として刊行)。道庁施政の問題点に触れるようなところがあって,当局の意にそわなかったためと伝えられている。13年河野は編纂主任を辞任した。その後も北海道史跡名勝記念物調査委員,小樽市立図書館長を務め,「小樽市史」や「室蘭市史」の編纂にもかかわった。適切な史料を発掘しての実証的,体系的歴史叙述は高く評価され,またすぐれた道史研究の後継者を育成したことも重要だった。<参考文献>高倉新一郎『北海道史の歴史』

(田端宏)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「河野常吉」の意味・わかりやすい解説

河野常吉
こうのつねきち
(1862―1930)

北海道史の研究家。文久(ぶんきゅう)2年11月22日信濃(しなの)国(長野県)に生まれる。1879年(明治12)松本師範学校を卒業、福島学校長を経て81年に上京、慶応義塾に学ぶ。卒業後、秋田県小真木(こまき)鉱山、養蚕業、新聞社、長野県庁、東京中央気象台などを転々とし、94年渡道して北海道庁嘱託となり、拓殖関係の調査報告編纂(へんさん)に従事した。道内の開拓地を調査した『北海道殖民状況報文』をはじめ『殖民公報』『移住者成績調査』などを編纂し、「北海道の生き字引」といわれた。1915年(大正4)、開道50年を記念する『北海道史』の編纂主任となったが、執筆内容で当局と対立し、事業は中絶した。しかし河野により前近代の北海道史の体系化がなされた。

[桑原真人]

『『河野常吉著作集』全5巻(1974~75・北海道出版企画センター)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河野常吉」の解説

河野常吉 こうの-つねきち

1863*-1930 明治-昭和時代前期の歴史家。
文久2年11月22日生まれ。河野広道の父。慶応義塾にまなぶ。新聞社などに勤務ののち,明治27年北海道庁嘱託。北千島,樺太(からふと)を実地調査し,「殖民公報」などを編集。大正4年開道50年記念の「北海道史」編纂(へんさん)主任となり,道史の体系化をはかった。後継者に高倉新一郎。昭和5年9月3日死去。69歳。信濃(しなの)(長野県)出身。松本師範卒。

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