日本歴史地名大系 「河野浦」の解説
河野浦
こうのうら
西は越前海岸に臨み、背後は山地を負い、北の
越前国府(現武生市)に行く最短距離の港であることなどから、古代、国府の外港として役割を果したと考えられ、河野浦の名は国府浦から転じたともいう。長禄四年(一四六〇)一二月吉日付川野浦納所注文(刀禰家文書)に「惣社御神領の内、川野浦本所分納所色々の事」とみえ、当時、府中の惣社大明神(現武生市の惣社大神宮)の神領であったことが知られる。文明期(一四六九―八七)と思われる九月六日付朝倉光玖書状や永正五年(一五〇八)一一月二四日付浦・山内馬借定書(西野家文書)によると当浦は「かわの」とよばれ今泉浦とともに廻運・浦馬借に携わり、中世は浦馬借の住む一村として西街道の運送に従事した。朝倉氏時代中期頃のものと考えられる九月七日付今泉・河野浦宛行忠・景延連署状(同文書)によれば、朝倉氏が軍事的配慮から
慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図によれば「川野浦」とみえ、高一一七・七〇五石でこれには今泉浦の高が含まれた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報